4話 隠す理由
目が覚めたのは、音ではなかった。
気配だ。
安宿の一室。窓の外に何かがいる。人間の体温と、術式の残り香。微かだが、確かにある。長年一人で旅をしてきた人間の勘が、眠りの底からカイを引きずり出した。
体は動かさない。呼吸も変えない。寝返りを打つふりで、薄目を開けた。
窓。月明かりが石壁を青く染めている。カーテンの隙間から、影が見えた。屋根の上にいる。一人。動かない。こちらを観察しているのか、壁に何かをしているのか——
影が、動いた。音もなく屋根を離れ、隣の建物へ跳ぶ。気配が遠ざかっていく。
十秒待った。二十秒。完全に消えたことを確認してから、カイは静かに起き上がった。
窓を開ける。
冷たい夜風が頬を打った。レグノアの夜は静かだ。魔導灯の光が通りをぼんやりと照らし、遠くで酒場の音が微かに聞こえる。
壁を見た。
窓枠の右下。石壁に何かが刻まれている。月明かりだけでは読めない。指先で触れた。溝がある。刃物ではない——術式で焼きつけた痕だ。
部屋に戻り、燭台に火を灯した。光を窓辺に寄せて、もう一度壁を見る。
紋章だった。
歯車の中に書物を配した意匠。下部に古い文字で二文字。「蒐集」。
蒐集院。
原典の断片を集めて「完全な一冊」に戻そうとする組織。各島に密かに根を張り、禁刻の使い手を探しているという。酒場で耳にした噂。空路船の船員が声を潜めて語っていた話。実体を見たのは初めてだった。
——見つかったか。
水晶球を壊した日か。広場で魔獣を飛ばした日か。あるいはもっと前、レグノアに降り立った瞬間から監視されていたのか。どちらにせよ、三日で印を刻まれた。仕事が早い。組織の規模が大きいことの証左だ。
カイは壁の紋章に右手を近づけた。
「——文字配列、変換」
改行。五秒間。紋章を構成する術式の記述が書き換わっていく。文字の配列が崩れ、再構成される。「蒐集」の二文字が消え、まったく別の文字列が浮かんだ。蒐集院の内部符号を知っている者が読めば、「対象は島を離れた。北方のフォルジアに向かった模様」と読める。
偽情報だ。
紋章には発信機能がある。術式で刻まれた印は、一定時間後に蒐集院の拠点に情報を送る仕組みだ。その内容を書き換えた。カイがここにいることは伝わらない。代わりに偽の足取りが流れる。
蒐集院の工作員は優秀だろう。だが、術式の記述そのものを書き換えられる人間がいるとは想定していないはずだ。改行は、蒐集院が知る術式の常識の外にある。
五秒が過ぎ、書き換えは定着した。紋章は元の形に見えるが、中身はまるで違う。
窓を閉めた。燭台の火を消す。
暗闇の中で、ベッドの端に腰を下ろした。
……フォルジアは次の目的地の候補だった。リーネと話したわけではないが、マリスティアへ向かう途中で立ち寄る可能性がある島だ。偽情報とはいえ、完全な嘘ではない。蒐集院がフォルジアを調べれば、カイの痕跡は何も見つからない。だがその間に時間が稼げる。
時間。
いつもそうだ。稼いだ時間で逃げる。見つかる前に島を出る。追いつかれる前に次の島へ渡る。
この三日間が少しだけ違っていたことを、認めたくはなかった。
◇
翌朝。
ギルドの前で、リーネが待っていた。いつもの門柱。いつもの腕組み。三日で定位置になったらしい。
「おはよう。今日は早いな」
「……ああ」
声が硬いことに気づかれただろうか。リーネの目が一瞬だけ細くなったが、何も言わなかった。
依頼を受け、こなし、昼を食い、午後にもう一件。いつもの日課だ。だが今日は動きが鈍い。昨夜ほとんど眠れなかった。蒐集院の印を見つけてから、目を閉じるたびに壁の紋章がちらついた。
依頼中も意識が割れている。角兎の追い込みをしながら、周囲の屋根を確認する。排水路を掃除しながら、通りを歩く人間の動きを見る。三日前までは必要のなかった警戒。一人でいた頃の癖が戻ってきている。
夕方。依頼を完了してギルドに戻る途中。
「何かあったか」
前を向いたまま、隣から声が飛んできた。
「何が」
「今日、ずっとどこか見てる。周り。屋根の上とか、路地の奥とか。依頼中もそうだった」
観察が鋭い。この女は。
「……気のせいだ」
「嘘だな」
歩きながらの会話だ。立ち止まらない。目も合わせない。だからこそ、核心に触れやすいのかもしれない。
「話したくないなら聞かない。でも一つだけ言わせろ」
「何だ」
「あたしはあんたの相棒だ。マリスティアまで、ってあんたが言った。なら、マリスティアまでは背中を預けろ」
相棒。三日前に出会った女が使うには早い言葉だ。
だが——否定する気にはなれなかった。
「……何でもない。本当に」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。代わりに、「焼き串食って帰ろう」と言った。昨日と同じ露店。昨日と同じ石段。串を齧りながら、夕暮れの空を見る。日課が三日で出来上がっている。四日前には存在しなかった習慣だ。
隣にいるこの女は、何も知らない。
蒐集院のことも。カイが追われていることも。改行の力に近づいた人間が、法則の歪みにどう巻き込まれるかも。
改行は世界の法則を書き換える。だが、法則は書き換えられた後も「元に戻ろう」とする。水が低いところに流れるように、歪んだ記述は正しい形に戻ろうとする。その反動は、書き換えた本人だけでなく、近くにいた人間にも及ぶ。
些細なことから始まる。体の調子が狂う。勘が鈍る。術式の精度が落ちる。それは本人すら気づかないほど緩やかに進行する。長く傍にいれば、もっと深いところまで軋む。骨に染みるように。ゆっくりと。確実に。
だから人を遠ざけてきた。
孤児院の頃から。七つの年に改行に目覚め、八つの年に孤児院の壁を壊した。遊んでいただけだ。石壁の硬度を書き換えたら、壁が砂のように崩れた。誰も怪我はしなかった。だが——子供たちの目が変わった。大人たちの目が変わった。怖がられ、遠ざけられ、やがてそれが当たり前になった。
遠ざけられたのではない。遠ざけたのだ。あのとき決めた。近くにいれば、壊す。だから離れる。
誰も傍に置かなかった。置けなかった。置くべきではなかった。
隣で串が食べ終わり、「明日は何件回れるかな」と呟きが漏れた。何気ない声。明日のことを当然のように語る声。
この女の隣にいるべきではない。
分かっている。分かっていて——まだ、ここに座っている。
◇
夜。宿の部屋で、カイは窓辺に立っていた。
壁の紋章を確認する。書き換えた偽情報はまだ残っている。蒐集院が気づくまで、あと数日は持つだろう。
その数日で、何をする。
逃げるか。いつものように。リーネに何も言わずに島を出て、一人でマリスティアに向かう。蒐集院の目をかわしながら。それが一番安全だ。リーネにとっても。
あの女は強い。一人でも戦える。マリスティアまで辿り着く力はある。喰海に手が出せなくても、別の方法を見つけるだろう。
そうだ。あの女は、一人でもやっていける。自分がいなくても。
窓の外。雲海の底の黒ずみ。三日前より濃くなった気がするのは、気のせいだろうか。
喰海。世界を沈める黒い霧。蒐集院はその断片を集めている。カイの改行を欲しがっている。すべてが繋がっている。
逃げるのは簡単だ。
だが——あの琥珀色の目を思い出す。「背中を預けろ」と言った声。焼き串を頬張る横顔。剣の柄を握る指の白さ。
明日の朝、ギルドの前に行けば、あの女は門柱に背中を預けて立っているだろう。腕を組んで、「遅い」と言うだろう。
逃げるのは——明日じゃなくてもいい。
そう思った自分が、一番危険だということも、分かっていた。




