22話 四人の船
マリスティアを出たのは、三日後の朝だった。
三行同時改行の反動は思った以上に深く体に残った。二日目には歩けるようになったが、改行を使える状態ではなかった。右手に力を込めると、指先が震えた。法則を書き換えるための集中力が、まだ戻りきっていない。
三日目の朝。ようやく体が動くようになった。試しに小石の重力を反転させてみた。一行の改行。小石が二メートルほど浮き、五秒後に落ちた。できる。だがまだ精度が甘い。完全な回復には、もう少しかかるだろう。
出発の前に、ナミが島の漁師たちに挨拶をして回った。一軒一軒、丁寧に。残っている三十人の住人、その半数以上が老人だ。ナミの水流がなくなれば、境界線の防衛はさらに弱まる。それでも——誰も引き止めなかった。
「行ってこい。お前がここにいても、いなくても、あと半年で同じだ。なら——何か方法を探してきてくれ」
老人の一人がそう言った。諦めではない。託している。最後の希望を、この島を出ていく女に。
港で見送りに来たのは、老人が三人だけだった。
「帰ってこいよ」
「帰ってくる。——島が沈む前に、方法を見つけてくる」
約束ではない。祈りに近い。だがナミは背筋を伸ばして言い切った。海の女の覚悟だ。
空路船に乗り込んだ。マリスティアから北東へ。次の行き先を決めたのは、昨夜の食卓だった。
◇
——前夜。ナミの家の食堂。
四人で地図を広げていた。金属板と、セリカの帳面と、マリスティアの古い地図。そして空路航路図。
「原典の文字を解読しないと先に進めない。あの壁に刻まれた文字が、喰海を止める鍵だとグレンは書いていた。でも俺たちには読めない」
「識刻の使い手が必要ってことか」
赤い髪が航路図を指で叩いた。
「識刻——術式の記述を読み取る力。どこにいる」
「アカデメイアなら確実にいるだろう。学術都市だ。だが遠い。今の航路では直行便がない」
帳面がめくられた。フォルジアで集めた航路情報が書いてある。この少女の記録癖が、こういう時に活きる。
「途中でノクターンに寄れます。永遠に太陽が当たらない島。闇市場がある」
「闇市場か。あんまりいい響きじゃないな」
姐御が眉をひそめた。
「だが情報は集まる。闇市場には何でもある。識刻の使い手も、原典に関する情報も」
「あんた、行ったことあるのか」
「ない。だが噂は聞いている。レグノアの酒場で」
あの夜。銀ランクの冒険者が蒐集院と校正者の話をしていた。フォルジア、ノクターン、セラフィーム——各島で歯車の紋章が見つかっている、と。ノクターンにも蒐集院の影がある。危険だ。だが情報が必要なら、危険な場所にこそ足を踏み入れるしかない。
「ノクターンまで、空路船で二日。決まりだな」
赤い髪が立ち上がった。議論が長くなるのが嫌いな女だ。結論が出たら即行動。海賊の娘らしい。
◇
——そして今。空路船の甲板に四人が立っている。
北東航路の中型船。乗客はまばらだ。南方のマリスティアから北東のノクターンへ向かう便は需要が少ないらしく、船は半分ほどしか埋まっていない。
船酔いの心配をしたが、リーネは完全に適応していた。「三度目だぞ。もう平気だ」と胸を張っている。レグノアからフォルジアへの風読み号では青い顔をしていた女が、今は甲板の手すりに腰かけて風を受けている。
ナミは海の島の娘だが、空路船は初めてだった。
「……こんなに高く飛ぶのか」
「雲海の上層を行く。揺れは少ない」
「揺れはいいんだ。高さがな。海の上なら落ちても泳げるけど——」
「それ、リーネも言ってた。まったく同じ台詞」
「海の女はみんなそう思うんだよ」
窓から見下ろす雲海に、ナミの目が少し不安そうに細くなった。だが吐きそうな顔はしていない。体幹が強いのだろう。漁師の娘は波の上で育つ。揺れには慣れている。
甲板の隅では帳面が広げられていた。金属板の裏面の紋様を解析し続けている。鉱石のサンプルを並べ、光の角度を変えながら紋様を観察している。独り言が聞こえた。早口で、聞き取れない。いつもの通りだ。
「あの子、船の上でもああなのか」
ナミが呆れたように言った。
「ああいう子だ。放っておけ。集中してるときに声をかけると逆効果になる」
「職人気質ってやつか」
「そうだ」
赤い髪が戻ってきた。焼き串を三本持っている。船の食堂で買ってきたらしい。
「食え。昼飯」
「あたしの煮込みのほうが旨いぞ」
「船の上で煮込みは作れないだろ」
「作れる。台所さえあれば」
「台所はない」
「じゃあ着いたら作る」
焼き串を受け取った。レグノアの露店とは味が違う。肉の種類が違うのか、香辛料が違うのか。どの島の焼き串も微妙に違う。だが——四人で甲板に座って食べるという行為は、同じだ。
四人。
二ヶ月前は一人だった。
レグノアでリーネに見つかって二人になり、フォルジアでセリカに追いかけられて三人になり、マリスティアでナミが加わって四人になった。気づけば四人分の食事を手配し、四人分の船賃を払い、四人分の宿を探している。
「あんた、何考えてる」
隣から声が飛んだ。
「……金の計算」
「切実だな」
「四人分の宿代と食費を、冒険者の依頼で稼がなきゃならない。ノクターンの依頼は報酬が高いらしいが、その分危険だ」
「あたしが料理すれば食費は減るぞ」
切れ長の目が計算を始めた。
「素材さえあればいい。市場で魚と野菜を買えば、一食一人あたり銅貨三枚で済む。外で食べたら銅貨十枚はする」
「七枚も違うのか」
「四人分で二十八枚。一日三食で八十四枚。銀貨に直すと一日あたり銀貨一枚弱の節約だ」
「計算が速いな」
「漁師の娘は算術ができないと商売にならない」
頼もしい。この女がいるだけで、パーティの経済が安定する。リーネは金勘定ができるが大雑把だ。「だいたい足りるだろ」が口癖。セリカは金銭感覚が壊れている——鉱石の値段は銅貨単位まで正確に知っているが、食事に銀貨を使うか銅貨を使うかの区別がつかない。カイ自身も一人旅のときは最低限で暮らしていたが、四人の経済を回す能力はない。
戦う力はある。分析する力もある。だが生きていくには、飯を作り、金を数え、宿を探す力がいる。
「ノクターンはどんな島だ」
切れ長の目が地図を見ている。行ったことがないのだろう。マリスティアから出たことがほぼない女だ。
「永遠に太陽が当たらない島。他の島の影になって、一日中暗い。だから闇市場が発達した。表に出せないものを売る場所だ」
「……物騒だな」
「物騒だ。だが情報がある。原典に関する知識を持つ人間、識刻の使い手——闇市場なら見つかるかもしれない」
「蒐集院もいるかもしれない」
「ああ。だから気をつける。四人でいればいい。バラバラに動かない」
「了解」
四つの声が揃った——三つだった。セリカは帳面に没頭していて返事をしていない。リーネが焼き串の骨で肩を突いた。「返事しろ」。「はい。何ですか」。「了解って言え」。「了解です」。三秒後にはもう帳面に戻っていた。
◇
夕暮れ。甲板に四人が並んだ。
手すりに腕を乗せ、雲海に沈む夕日を見ている。もう何度目だろう、この光景。レグノアの港の屋根で二人で見た星空。フォルジアの赤い夕焼け。マリスティアの半分の星空。そして今——四人で、名前も知らない空路船の甲板で、夕日を見ている。
左からリーネ、カイ、ナミ、セリカ。
「ノクターンは暗い島なんだろ。夕日は見えないのか」
「太陽が当たらないから、夕日もない」
「じゃあ今のうちに見とくか」
切れ長の目が細くなった。海の島で二十年、毎日夕日を見てきた女だ。当たり前だった景色が、旅に出ると当たり前でなくなる。
「夕日がない島って、どんな感じだろうな」
「暗いんじゃないですか」
帳面から顔が上がらないまま、声が飛んだ。
「それは分かってるんだよ」
「じゃあなぜ聞くんですか」
「雰囲気ってものがあるだろ」
「雰囲気は記録できないので、苦手です」
姐御が吹き出した。リーネも笑った。
四人の笑い声が、甲板に広がった。二人のときはなかった音だ。三人のときにもなかった。四人分の笑い声は、空路船の甲板を少しだけ温かくする。
ふと思った。レグノアの広場で魔獣を飛ばしたとき、周囲にいた全員が凍りついていた。誰も笑わなかった。あの日から何が変わったのだろう。力は同じだ。改行は変わっていない。変わったのは——周りにいる人間だ。
一人の笑い声はない。二人の笑い声は、まだぎこちなかった。三人で少し賑やかになった。四人で——やっと、笑い声と呼べるものになった。
明日の夕方には、ノクターンに着く。太陽のない島。闇市場。情報と危険が隣り合う場所。
だが今夜は、夕日が綺麗だ。四人で見る夕日は、一人で見る夕日より——ずっと長く、目に残る。




