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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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21話 三行同時改行

三行。同時に。


 一行目——重力反転。魔獣を浮かせる。ただし喰海の魔獣は改行を溶かす。一行では二秒で打ち消される。だから三行で包囲する。


 二行目——水分瞬間凍結。マリスティアは海の島だ。空気中の水分が多い。足元にはナミの潮流が残した水膜がある。それを一瞬で凍らせる。氷は法則の塊だ。水の法則が喰海に抵抗力を持つなら、氷はさらに強い。


 三行目——氷の硬度を鋼鉄に。通常の氷では砕ける。喰海の魔獣の体表は法則を溶かす。氷が触れた瞬間から溶かされ始める。だが硬度を鋼鉄まで上げれば、溶かされる速度より先に貫ける。


 三つの法則を同時に書き換える。五秒間で。


 ——やれるか。


 やるしかない。


「ナミ。水をくれ。できるだけ多く。魔獣の足元に」


 声が後方から飛んだ。


「任せろ!」


 潮流。ナミの水が地面を這い、魔獣の周囲に流れ込んでいく。黒い脚が水に触れた。水膜が黒く変色し始める。法則が溶かされている。だがナミは水を送り続けた。溶かされた分を補充する。消耗戦だ。長くは持たない。


 充分だ。五秒あればいい。


 右手を上げた。


 深く、息を吸った。


 三行の法則を、頭の中に同時に描く。重力の方向。水の凝固点。氷の結晶構造。三つの書き換えを、一度に放つ。


 意識が引き裂かれるような感覚。一行ずつ書くのとは違う。三つの法則が同時に頭の中で拮抗し、互いに干渉し合う。重力を変えれば水の挙動が変わる。水を凍らせれば重力の影響が変わる。硬度を上げれば凍結の速度に影響する。三つが三つを書き換え合う。その矛盾を——力で押さえ込む。


 体が軋んだ。まだ発動していないのに、三行分の法則を同時に「理解している」だけで、脳が悲鳴を上げている。


「——重力、反転。水分、瞬間凍結。氷の硬度、鋼鉄に」


 三行同時改行。


 世界が、三行分書き換わった。


 ◇


 魔獣の足元の水が凍った。


 一瞬だった。水膜が白く変色し、氷の層が魔獣の脚を包み込む。同時に——重力が反転した。魔獣の体が浮き上がろうとする。だが脚は氷に固定されている。引き裂かれるような力が、魔獣の体にかかった。


 そして三行目。氷の硬度が鋼鉄に変わった。


 足元から、氷の槍が伸びた。


 凍った水膜から、鋼鉄の硬度を持つ氷柱が突き上がる。一本ではない。三本、五本、七本——ナミが流し込んだ水の量だけ、氷の槍が生まれた。重力反転で浮き上がろうとする魔獣の体を、下から氷の槍が貫いた。


 鋼鉄の氷が、喰海の魔獣を串刺しにした。


 黒い体表が氷に触れ、溶かそうとしている。氷の表面が黒く変色していく。だが——溶かす速度より、氷の生成が速い。ナミの水が途切れず供給され、カイの改行が水を即座に凍らせ、鋼鉄の硬度が溶解に抵抗する。三つの法則が同時に機能して、喰海の魔獣を押さえ込んでいる。


 魔獣が吼えた。声のない叫び。音がない。だが空気が震えた。法則のない存在が発する、法則の外側の振動。


 氷の槍が一本砕けた。黒い体表が溶かし切ったのだ。だがすぐに次の槍が突き上がる。


 二本目が砕けた。三本目。


 五秒。


 改行が切れた。


 重力が戻った。氷の生成が止まった。硬度が元に戻った。


 だが——魔獣は、もう動かなかった。


 七本の氷の槍のうち四本が、五秒間で魔獣の体を貫通していた。黒い体表が氷の槍に沿って灰色に変わっていく。法則を持つ氷が、法則を持たない体の中に食い込み、内側から法則を押し込んでいる。


 喰海の魔獣が——崩れた。


 黒い霧が四散した。形を失い、風に散り、境界線の向こうへ消えていく。後に残ったのは、地面に突き立つ七本の氷の槍と、石畳に広がる水たまりだけだった。


 静寂。


 風が吹いた。海の風だ。匂いが戻っている。魔獣がいた場所の空気に、再び海と草の匂いがある。法則が溶かされた空間に、法則が戻っている。


 境界線の向こうでは、まだ黒い霧が渦巻いている。喰海は消えていない。だが——魔獣は消えた。島を脅かしていた最大の脅威が、今、この瞬間は去った。


 終わった。


 ◇


 膝から崩れた。


 口から血が出た。吐いたのではない。溢れたのだ。喉の奥から、止められない勢いで。石畳に赤い染みが広がる。


 視界が回転している。空と地面の区別がつかない。三行同時改行の反動。一行の三倍ではない。体感では十倍だ。頭の中が空白になっている。さっきまで三つの法則を同時に保持していた脳が、法則を手放した瞬間に虚脱した。


 足音が駆けてくる。


「カイ!」


「馬鹿! 無茶するなって言っただろ!」


 体が支えられた。赤い髪の匂い。腕が背中に回されている。


「血が——こんなに——」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃない! 目を開けろ! あたしを見ろ!」


 目を開けた。ぼやけた視界に、琥珀色の目が映った。怒っている。泣いている。両方だ。


「……魔獣は」


「消えた。あんたが倒した。だからもう——もう無茶するな」


 声が震えている。剣の柄を握る指が白くなった時と同じ震え方。リーネが本当に怖がるときの震え方だ。


「……悪い」


「謝るな。生きてろ」


 水が口に当てられた。ナミだ。冷たい水が喉を流れた。血の味が薄くなる。


「飲め。ゆっくりでいい。あとは任せろ」


 姐御の声は落ち着いていた。だが水差しを持つ手が、微かに震えていた。


 意識が薄くなっていく。抗えない。三行同時改行の代償だ。体が休息を要求している。


 最後に見えたのは、三人の顔だった。赤い髪。切れ長の目。そして——遠くから駆けてくる眼鏡。


 悪くない景色だ——と、また思った。


 ◇


 丸一日、眠った。


 目を覚ましたのは翌日の夕方だった。宿の部屋。窓から夕陽が差し込んでいる。体が鉛のように重い。だが——昨日より、ましだ。


 枕元に、誰かが座っていた。


 切れ長の目の女だった。椅子を持ち込んで、ベッドの横に座っている。膝の上に繕い物を広げていたが、うたた寝していた。口元が少し開いている。起きているときの姐御の顔ではない。疲れた、一人の女の寝顔だった。どれだけの時間、ここにいたのだろう。


 起き上がろうとしたら、気配で目を覚ました。


「……起きたか」


「ああ。どれくらい寝てた」


「丸一日。リーネは三時間前に交代して寝かせた。セリカは帳面を持ったまま床で寝てる」


 交代で看病していたのだ。


 ナミが水を持ってきた。飲んだ。粥を温めてきた。食べた。魚と根菜と香草。いつもの煮込みとは違う、柔らかい味。病人食だ。


「……旨い」


「当たり前だ。あんた一日何も食べてないんだから、何食っても旨いよ」


 そう言いながら、おかわりを持ってきた。食べた。三杯目を勧められたところで、さすがに断った。


「ナミ」


「何だ」


「ありがとう。看病」


「礼はいい。あんたのおかげで魔獣が消えた。島が救われた。看病くらい安いもんだ」


 淡々とした声。だが——次の言葉が、少しだけ違った。


「……あんたが倒れたとき、足が動かなかった」


「足が」


「あたしは一年間、一人で境界線を守ってきた。喰海の魔獣も何度か出た。もっと小さいやつだけど。そのたびに一人で押し返した。慣れてた。一人に、慣れてたんだ」


 切れ長の目が、窓の外を見ていた。夕陽に染まった海。半分が黒い海。


「でもあんたが倒れたとき、足が動かなかった。怖かったんだ。一人のときは怖くなかった。自分が死ぬだけだから。でも——目の前で人が倒れるのは、怖い」


 声が静かだ。姐御の声ではない。一人の女の声だ。


「一人は——もう嫌だ」


 呟きだった。カイに聞かせるつもりだったのか、独り言だったのか。


「……俺たちは明日には出発する。体が戻ればだが」


「知ってる」


「この島のことは——」


「あたしも行く」


 振り返った。切れ長の目がまっすぐにこちらを見ている。


「ここで待ってても島は沈む。あんたの旅に賭ける。あんたの力があれば——喰海を、止められるかもしれない。この島だけじゃなく、世界中の喰海を」


「俺にそんな力は——」


「ある。あたしは見た。三行同時であれを倒した。血を吐いて倒れたけど——倒した。あんたには、可能性がある」


 可能性。一人で一年間、可能性のない戦いを続けてきた女が、初めて可能性を口にしている。


「……島を離れていいのか」


「良くない。でも——ここにいても、あと半年で全部沈む。なら、外に出て方法を探すほうがいい」


 その判断は正しかった。感情ではなく論理だ。だがその論理の裏に、「一人はもう嫌だ」という感情がある。両方が本音だ。


「……勝手にしろ」


 同じ台詞を、二度目に言った。フォルジアの甲板でセリカに言ったのと、同じ言葉。だが——今回は、少しだけ早く口から出た。


 ナミが笑った。姐御の笑みではない。安堵の笑みだった。


「飯、作ってやるよ。毎日」


「……頼む」


 窓の外、マリスティアの海に夕陽が沈んでいく。半分の星空が、間もなく広がるだろう。


 四人になった。


 赤い髪。眼鏡。切れ長の目。


 一人で始めた旅が、また一人増えた。増えるたびに、背負うものも増える。守るべきものも。失うかもしれないものも。


 だが——粥が旨かった。それだけは確かだ。

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