20話 喰海の魔獣
カイが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
宿の部屋。窓から午後の光が差し込んでいる。体が重い。五回の改行の反動が、一晩経ってもまだ残っていた。指先に力が入らない。頭の奥がぼんやりと霞んでいる。
枕元に水差しと、パンが置かれていた。ナミだろう。あの姐御は何も言わずにこういうことをする。
水を飲んだ。パンを齧った。少しずつ、世界の輪郭が戻ってくる。
ベッドの脇のテーブルに、帳面が広げられていた。セリカの字だ。寝ている間に置いていったらしい。金属板の分析結果が書かれている。
体を起こして、読んだ。
◇
セリカの分析は、三つの項目に分かれていた。
一つ目。金属板の素材。通常の鉄ではない。複数の鉱石が配合された特殊合金で、結晶構造が原典の紋様と融合している。フォルジアでの鍛造実験と同じ原理——鍛魂と改行の融合で生まれた紋様に酷似しているが、規模と精度が桁違いだ。この金属板を作った人間は、カイの改行と同等かそれ以上の力で結晶を操作していた。
グレン。リーネの父。元蒐集院第三席。この男は——改行に似た力を持っていたのか。あるいは蒐集院の技術で、それに匹敵するものを再現していたのか。
二つ目。壁に刻まれた原典の文字。セリカには読めないが、文字が発する光のパターンを記録していた。光の強度が周期的に変化しており、何らかの情報が符号化されている可能性がある。解読には識刻——術式の記述を読み取る力——が必要だとセリカは書いていた。
三つ目。金属板の裏面。表面にはグレンの遺言が刻まれていたが、裏面にも何かがある。肉眼では見えないが、セリカが光に透かしたところ、微細な紋様が浮かんだ。地図のようなものだ。マリスティアの地形に似ているが、現在の地図とは一致しない。喰海に沈む前の——元のマリスティアの地図かもしれない。
帳面を閉じた。
セリカの分析力は、鍛冶師の枠を超えている。金属の結晶から物語を読み取る目。あの眼鏡の奥の目が捉えたものは、カイの改行とは別の角度から原典の謎に迫っている。
部屋を出た。
◇
階段を降りると、食堂にリーネとセリカがいた。
金属板を前にして、赤い髪が黙っている。父の遺言を何度も読み返していたのだろう。目が赤い。寝ていないのかもしれない。
セリカは帳面に何かを書き続けていた。金属板の裏面の紋様を拡大して写しているようだ。
「起きたか。体は」
「動ける」
「嘘。顔色悪い」
「動けると言った」
鼻を鳴らされた。信じていない顔だが、それ以上は追及しなかった。
「セリカ。裏面の地図について聞きたい」
「はい。昨日の分析の続きですが——この紋様、現在のマリスティアの海岸線と重ねてみたんです」
帳面を広げた。二つの地図が並べて描かれている。左が金属板の裏面から写した紋様。右が昨日セリカが記録した現在のマリスティアの地図。
「南側が全然違います。現在の地図では喰海に沈んでいる部分が、金属板の地図では残っている。つまりこれは喰海が来る前のマリスティアの地図です。そして——ここ」
指が、金属板の地図の南端を示した。
「ここに印がある。小さな円が三つ。たぶん——何かの場所を示している」
「父さんの家の近くだ」
赤い髪が身を乗り出した。
「三つの円。父さんが何を探していたか分からないけど——金属板に地図を刻んだってことは、また行くつもりだったんだ。場所を忘れないように」
だが帰らなかった。
そこまで言いかけて、リーネは口を閉じた。
重い沈黙が食堂を満たした。窓の外で、波の音がしている。
扉が開いた。ナミだ。息を切らしている。朝の余裕がない。顔が強張っていた。
「来てくれ。境界線で——何か出てきた」
◇
走った。
丘を下り、集落を抜け、南へ。境界線まで三百メートル。走りながら、ナミが説明した。
「朝から喰海の動きがおかしかった。霧の密度が上がってる。いつもと違う。何かが中から押し出されてくるように——」
境界線が見えた。
そして——そこにいた。
黒い。
境界線の向こうから、半身を突き出すようにして、それはいた。四本の脚。胴体は犬のように低い。だが大きい。馬よりも大きい。全身が黒い霧を纏っている。いや——霧を纏っているのではない。霧そのものが固まったような体だ。輪郭が定まらない。見るたびに形が微妙に変わる。目がない。顔がない。頭部があるべき場所に、黒い穴だけがある。穴の奥に、何かが蠢いている。虚無そのものが、意志を持ったように。
喰海の魔獣。
レグノアの岩殻蜥蜴とは次元が違う。フォルジアの鉱脈蜘蛛とも、灰鬣狼とも違う。あれらは物理法則の中に存在する生き物だった。これは——法則の外から来たものだ。喰海そのものが形を取ったような存在。記述を持たない生き物。いや、生き物と呼べるかすら分からない。
空気が冷たくなった。匂いが消えた。音が遠くなった。魔獣の周囲だけ、喰海の中と同じ法則の空白が広がっている。存在するだけで、周囲の法則を溶かしている。
境界線の手前で、島の漁師が三人、震えながら立っていた。手に銛を持っているが、突き出す勇気がない。当然だ。あれに物理的な攻撃が通じるかどうかすら分からない。
「退がれ!」
炎の剣が抜かれた。炎が灯る。赤い炎。漁師たちが慌てて後ろに下がった。
魔獣が動いた。
遅い。岩殻蜥蜴や灰鬣狼の俊敏さはない。だが——重い。黒い脚が地面を踏むたびに、石畳が黒く変色する。触れたものの法則を溶かしている。
「リーネ! 斬るな!」
叫んだ。遅かった。
炎刃が魔獣の前脚に叩き込まれた。赤い炎が黒い体表に触れた瞬間——炎が消えた。
消えた。
炎刃が、触れた箇所だけ炎を失った。刀身自体は残っている。だが炎が——炎の法則が、魔獣の体表で溶かされた。
「っ——!」
赤い髪が飛び退いた。剣を見る。刀身に変化はない。だが炎が消えている。再び灯そうとする。灯った。だが——以前より色が薄い。
「炎が……弱くなった」
「触れるな。あれに術式で触れると、術式の法則が溶かされる。物理的な攻撃は通じても、術式が食われる」
ナミが水流を放った。潮流の水が魔獣の胴体にぶつかる。水は弾かれた——が、ナミの術式にも影響が出た。水流の勢いが目に見えて落ちた。
「あたしの潮流も……弱くなった」
術式が効かない。触れれば術式の法則を吸われる。通常の戦い方では、戦うほどにこちらが弱くなる。
魔獣が前進した。境界線を越えようとしている。黒い脚が、北側の石畳に踏み出した。踏まれた場所が黒く変色する。喰海の領域が——魔獣と共に、広がろうとしている。
「止めないとまずい。あれが集落に入ったら——」
「分かってる」
改行なら——法則を書き換える力なら、法則を溶かす存在に対抗できるかもしれない。だが体がまだ万全ではない。昨日の五回の改行の反動が残っている。
右手を上げた。
「——重力方向、反転」
レグノアの広場で岩殻蜥蜴に使った改行と同じだ。最も単純な、最も確実な一手。魔獣の体を空に向かって弾き飛ばす。
魔獣の体が浮いた——が、すぐに落ちた。
効いていない。正確には、効いたが弱い。重力反転はかかった。だが魔獣の体表が法則を溶かし、反転の効果を内側から消していった。五秒の改行が、二秒で打ち消された。
「通じない……いや、通じたが——」
喰海の魔獣は、改行すら溶かす。通常の術式よりはましだが、五秒のうち三秒を無効化された。実質二秒の改行。重力反転は二秒では魔獣を島の外に飛ばすどころか、二メートルも浮かせられない。
こいつは——今まで戦ったどの相手よりも厄介だ。
魔獣がさらに前進した。境界線を完全に越えた。北側に、黒い存在が立っている。足元の石畳が一歩ごとに黒く染まっていく。歩くだけで喰海の領域を広げている。あれが集落に入れば、家々の法則が溶ける。壁が崩れ、床が朽ち、人が——
「カイ。あれを止めないと、島が——」
「分かってる」
分かっている。通常の一行改行では足りない。あれを止めるには——もっと大きな力が要る。
改行を、同時に複数行使う。
やったことはない。理論上は可能だ。一行の改行で法則を一つ書き換える。二行なら二つ。三行なら三つ。同時に三つの法則を書き換えれば、喰海の魔獣が溶かす速度を上回れるかもしれない。
だが——代償がある。複数行同時改行は反動が跳ね上がる。一行の改行でさえ、喰海相手には血の味がした。三行同時なら——血を吐く。意識を失う。最悪の場合、体が改行の負荷に耐えられない。
昨日五回の改行で倒れた体に、三行同時を撃つ。正気の沙汰ではない。
だが——今この瞬間に、他に手はない。あの黒い存在が集落に入れば、この島の残り半分が終わる。
「リーネ。ナミ。下がれ。半径三十メートルから出ろ」
「何をする気だ」
「三行同時に書き換える」
赤い髪と切れ長の目が、同時に凍りついた。
その意味を、二人は正確に理解した。




