2話 炎と改行
朝飯を食い損ねた。
宿の食堂に降りたのが遅すぎた。残っていたのはパンの耳と、もう冷めた香草茶だけだ。カイはパンの耳を齧りながら、ギルドへ向かう通りを歩いていた。
昨日のことを考えている。水晶球を壊した。広場で魔獣を飛ばした。赤い髪の女に見られた。
三つの失敗だ。
ギルドの入口が見えてきたところで、足が止まった。
赤い髪。
ギルドの門柱に背中を預けて、腕を組んで立っている女がいた。
「遅い」
リーネだった。昨日の琥珀色の目がまっすぐにカイを捉えている。寝癖もなく、装備も整っている。朝から待っていたのだろう。
「……なんで俺の宿を知ってる」
「知らない。ギルドの前で張ってた。あんた冒険者になったんだろ。来るに決まってる」
理屈は合っている。合っているのが腹立たしい。
「昨日の話なら、もう——」
「忘れろって言うなら無駄だ。昨日聞いた」
カイは黙った。素通りしようとしたが、リーネが横に動いて道を塞いだ。猫のように素早い。
「組め。あたしと」
「断る」
「理由は」
「一人のほうが楽だ」
「嘘だろ。楽じゃなくて、そうしたいだけだ。あんた昨日、子供を助けるのに一秒も迷わなかった。楽を選ぶ人間の動きじゃない」
少し驚いた。顔には出さなかったが、この女は観察が鋭い。剣を抜きかけていた姿勢といい、魔獣に怯まない胆力といい、ただの冒険者ではない。
「お前、どこで戦い方を覚えた」
聞くつもりはなかった。口が勝手に動いた。
リーネの目が一瞬だけ揺れた。ほんの僅か。すぐに元に戻る。
「父さんに教わった。海賊だった」
「海賊」
「元、な。もういない」
リーネの声は変わらなかった。だが、剣の柄に置いた左手の指が、一瞬だけ白くなった。
それ以上は語らなかった。聞かなかった。触れてほしくない領域の匂いは、自分にも覚えがある。
風が通りを抜けていくまで、どちらも口を開かなかった。
「パーティは」
「いない。気が強すぎて誰とも合わないんだと。三回組んで三回解散した」
自分で言うか、とカイは思った。
「お前と組む理由がない」
「ある」
リーネの声の温度が変わった。
腕組みを解き、一歩近づく。声が低くなった。さっきまでの威勢のいい口調ではない。
「マリスティアって島を知ってるか」
「海の島だろう。南側が喰海に浸食されている」
「あたしの故郷だ」
風が吹いた。ギルドの前を通り過ぎる冒険者たちが、立ち話をしている二人を迂回していく。
マリスティア。名前は聞いたことがある。空路船の航路図では、南方に位置する中規模の島だ。漁業が盛ん。だが近年、喰海の浸食が加速して住民が減り続けているとも聞く。
「父さんが——あの島に何かを残した。何かは分からない。ただ、命がけで守ったものがある。それを探しに行きたい」
「一人で行けばいい」
「喰海が邪魔なんだ。あたしの炎じゃ、あれには触れられない」
喰海。昨夜、窓の外の雲海の底で見た黒ずみ。あらゆるものの法則を溶かす虚無の霧。通常の術式では干渉できない。炎で焼けるものではないし、剣で斬れるものでもない。
「お前の力なら、押し返せるかもしれない」
足が止まった。
改行で、虚無に干渉する。法則を書き換えることで、法則のない空間に法則を押し込む。理論上は——可能かもしれない。試したことはない。だが、考えたことはあった。
「あたしが島を救いたいってだけの話なら、あんたは断るだろ。分かってる」
琥珀色の瞳が据わっていた。
「でもあんたは昨日、子供を助けた。力を隠してるくせに、見過ごせなかった。あんたはそういう奴だ」
「買いかぶるな」
「買いかぶってない。見たんだ、この目で」
しばらく、二人は黙って向かい合っていた。
ギルドの喧騒が遠くに聞こえる。空路船の汽笛。露店の呼び声。朝のレグノアはいつも通りだ。昨日魔獣が暴れた広場も、もう修復が始まっている。
あの目を見ていた。
嘘がない。打算もない。ただ、島を救いたい。父が残したものを見つけたい。そのために使えるものは何でも使う——そういう目だ。
気が強いのではない。必死なのだ。
「……一つ聞く」
「何だ」
「お前の術式。炎刃というのは、どの程度だ」
琥珀の目が丸くなった。それから——笑った。不敵で、少し子供っぽい笑い方だった。
「見せてやる。ちょうどいい依頼がある」
◇
レグノアの東端。島の縁に近い岩場。
足元の岩盤が、数歩先でぷつりと途切れている。その先は断崖。覗き込めば雲海が渦を巻いているのが見えた。風が強い。島の縁はいつも風が吹く。何もない空から、何もない空へ抜けていく風だ。
ギルドの鉄ランク依頼——岩場に巣食う蟲翼蝙蝠の駆除。群れの数は二十前後。毒はないが、数で押してくる厄介な魔獣だ。
先行したのはリーネだった。
剣を抜く動作に無駄がない。鞘走りの音が一つ、短く鳴った。
片手剣の刀身が、炎に包まれた。
ただの炎ではない。赤から白へ、色が移り変わる刃。リーネの刻印——戦刻「炎刃」。武器に炎を纏わせ、斬撃と同時に焼く近接戦闘の術式だった。
「来るぞ」
岩場の隙間から、蟲翼蝙蝠が噴き出してきた。暗い灰色の翼が空を覆う。二十——いや、三十近い。想定より多い。
踏み込んだ。
速い。
一閃。炎の軌跡が弧を描き、先頭の三匹が灰になった。着地と同時に身を翻し、背後から迫る一匹を肘で弾いて、返す刃で焼き斬る。足運びに迷いがない。重心が常に前にある。攻めの剣だ。守りを考えていない——いや、守る前に斬り終える速度で攻めている。
海賊の娘、とカイは思った。船上の戦闘は足場が悪い。狭い甲板では、守りに回った瞬間に海に落ちる。だから先に斬る。父親に教わったのだろう。波の上で。
岩に背を預けて見ていた。手を出す気はない。
七匹、十匹、十五匹——リーネの炎が岩場を照らすたびに、蟲翼蝙蝠が灰になっていく。だが数が多い。さすがに息が上がり始めた。炎の色が白から赤に戻りつつある。
残り八匹。うち三匹が、リーネの背後に回った。
気づいているはずだ。だが正面にも五匹いる。振り返れば正面を取られる。
「——後ろは任せろ」
赤い髪が一瞬だけ振り返った。
「手を出すなって言ってないだろ!」
「出すなとも言われてない」
右手を上げた。背後の三匹に向けて。
「——空気密度、十倍」
三匹の蟲翼蝙蝠の周囲の空気が、瞬時に粘度を増した。翼が動かなくなる。水中に叩き込まれたように、三匹の体が空中で止まった。そのまま、自重で岩場に落ちる。
五秒後、空気が元に戻った。だがもう飛べない。高密度の空気の中でもがいた翼膜が破れている。
正面の五匹を斬り終えて振り返ったとき、背後の三匹は地面で痙攣しているだけだった。
「……殺してないのか」
「殺す必要がなかった」
「あたしは灰にしてるのに?」
「お前の炎と俺の改行は性質が違う。それだけだ」
汗を拭い、剣を鞘に収める。炎が消えた。刀身にはまだ熱が残っていて、鞘の口から陽炎が揺れた。
「改行——そう呼ぶのか。お前の術式」
「まあ」
「改行と炎刃。相性は悪くないと思うけど」
「悪くない」
自分の声が少しだけ柔らかくなったことに、気づいていなかった。炎を間近で見て、理解した。この女は強い。改行がなくても自分で戦える。助けを求めてはいるが、依存はしていない。
対等。
その言葉が浮かんで、すぐに打ち消した。まだ早い。
それが——少し、楽だった。
「空気の密度を上げて翼を潰した。あれ、応用したらあたしの炎の威力も上げられるんじゃないか」
目を細めた。
「……酸素の密度を上げれば、炎の温度は上がる。逆に密度を下げれば、敵の術式の炎を消すこともできる」
「マジか。攻めにも守りにも使えるってことじゃん」
「ただし改行の効果は五秒だ。三十秒の間隔を空けないと次は使えない」
「五秒で充分。あたしが三十秒稼ぐ」
即答だった。迷いがない。さっきの戦闘を見れば、三十秒どころか一分でも持たせるだろう。
溜息が出た。だが、否定はしなかった。
◇
依頼を完了してギルドに戻る道すがら。夕暮れの通りを二人で歩いていた。
隣に人がいる。それだけのことに、まだ慣れない。ここ数年、誰かと並んで歩いた記憶がない。
「で、組むのか組まないのか」
「……マリスティアまでだ。それ以上は約束しない」
隣の足音が止まった。つられて止まる。
振り返ると、笑っていた。さっき岩場で見た不敵な笑みではなく、もっと素朴な——安堵を隠しきれない顔。
「充分だ」
すぐに表情を引き締めて、「じゃ、明日から鉄ランクの依頼こなして路銀貯めるぞ」と早口に言った。照れているのだろう。分かりやすい女だ。
前を向いた。歩き出す。
レグノアの夕空に、隣の島のシルエットが浮かんでいる。雲海が夕陽に染まって赤い。その赤が、隣を歩く女の髪の色に似ていた。
マリスティアまで。喰海が侵食する島。父親の遺産。
面倒事が増えた。
だが——口の端が、ほんの少しだけ上がっていたことは、隣のリーネにも見えなかったはずだ。




