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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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19話 父の遺産

二度目の挑戦は、翌朝始まった。


 昨日と同じ場所。喰海の境界線。黒い霧が南側を覆い、その向こうに沈んだ世界が暗く横たわっている。


 だが今日は違う。体を一晩休ませた。ナミが朝食に出してくれた魚の粥が、思った以上に体に効いていた。温かいものを食べたのは久しぶりだ。


 四人が境界線の前に並ぶ。カイ、リーネ、ナミ、セリカ。昨日よりも顔つきが引き締まっていた。全員が、あの光る文字を見ている。六メートル先の壁。あと十メートル。


「手順を確認する」


 カイが言った。


「改行で二メートルずつ押し返す。ナミが水膜で固定する。五回で十メートル。CTは三十秒。その間にナミが水を補充する。リーネは俺の後ろについて、喰海の中から何が出てきても対処できるようにしろ。セリカは境界線のこちら側で記録と分析」


「了解」


「分かった」


「はい」


 三つの声が揃った。作戦会議は昨夜のうちに済ませてある。あとは実行するだけだ。


「……行く」


 ◇


 一回目。


「——空気の物理法則、再定義」


 押した。昨日と同じ抵抗。ぬるい壁を押す感覚。だが今日は心構えがある。虚無の手応えのなさに惑わされない。押し込む。法則を注入する。空気の物理法則——圧力、温度、密度。それらが存在するという記述を、何もない空間に叩き込む。


 二メートル。霧が退いた。ナミの水が追いかける。


 水膜が地面を覆った。昨日よりも厚い。ナミが一晩かけて、島の水脈から大量の水を汲み上げて準備していたのだ。水の層が分厚いほど、法則の保持力は強い。


 五秒。改行が切れた。霧が押し戻そうとするが、水膜が抵抗する。持っている。


 三十秒。CT明け。


 二回目。さらに二メートル。合計十メートル。昨日の六メートルを超えた。


 黒い霧の中に、水で守られた通路が伸びている。幅は人一人が通れる程度。両側を黒い壁が覆い、頭上にも霧が垂れ込めている。トンネルのようだ。光は背後の境界線からしか入らない。薄暗い。冷たい。そして——静かだ。喰海の中には音がない。法則がない世界には、音を伝える空気の振動もない。通路の中だけが、改行で法則を取り戻した空間で、足音が聞こえる。一歩外に出れば、自分の声すら消える。


 足元の水膜が、通路の奥に向かって流れている。ナミの潮流が水を送り込んでいる。水が流れ続ける限り、通路は維持される。だが水の層は薄い。靴底が石畳に触れるたびに、水の膜が一瞬途切れる。途切れた場所から、黒い霧が滲もうとする。すぐにナミの水が塞ぐ。その繰り返しだ。


 三回目。十二メートル。


 口の中に鉄の味。昨日は三回で限界だったが、今日はまだ動ける。体力の回復もあるが——覚悟の差だ。昨日は試行だった。今日は本番だ。


 四回目。十四メートル。


 呼吸が荒い。視界の端が暗くなりかけている。改行の反動だ。喰海の虚無に法則を押し込むたびに、自分の中の何かが削られていく。法則を注入するということは、自分の中にある法則の理解をそのまま外に放出するということだ。理解が薄れれば、改行の精度も落ちる。


 だがもう少しだ。


 五回目。


「——空気の物理法則、再定義」


 十六メートル。


 目の前に、壁があった。


 黒く変色した石壁。かつて白かったのだろう。マリスティアの建物は白と青だと、リーネが言っていた。今は黒い。喰海に法則を溶かされ、石としての性質を失いかけている。


 だがその壁に——光る文字があった。


 原典の文字だ。


 古い。非常に古い文字列が、壁面に刻まれている。文字そのものが光を発していた。喰海の中にあるのに消えていない。周囲の石が法則を失って崩れかけている中で、この文字だけが光を保っている。文字に刻まれた法則が、喰海の虚無に抵抗しているのだ。


 五秒が切れた。だがナミの水膜がここまで届いている。通路は維持されている。霧が壁を覆い直す前に——


「リーネ。来い」


 赤い髪が駆けてきた。通路の中を走り、カイの隣に立った。


 壁を見上げた。光る文字。原典の言葉。読めない。だが——文字が発する光は温かい。喰海の冷たい闇の中で、この壁だけが温度を持っている。誰かがここに法則を刻んだ。喰海に抗うために。何年も前に。


 壁の下部に、別のものがあった。


 金属板だ。


 壁の根元に、石壁に埋め込まれるようにして金属板が固定されている。手のひら二枚分ほどの大きさ。縁が少し錆びているが、中央部は輝きを保っている。表面に文字が刻まれている。原典の文字ではない。通常の文字だ。人の手で、丁寧に刻まれた文字。


 リーネがしゃがんで、金属板に手を伸ばした。指が触れた瞬間——


「……父さんの字だ」


 声が震えた。だが泣いていない。昨夜泣き終えた目だ。


「読めるか」


「読める。——読む」


 金属板に刻まれた文字を、リーネが声に出して読んだ。


「『この板の上の文字は、原典の断片の一つである。私はこれを守るために半生を費やした。蒐集院に渡してはならない。この断片には、喰海を止める鍵が記されている。私の名はグレン。元蒐集院第三席。娘よ——お前がこれを見つけたなら、お前はもう子供ではないのだろう』」


 沈黙。


 水膜の上を、水が流れる音だけが聞こえていた。


 グレン。リーネの父の名前。元蒐集院第三席。蒐集院の——幹部だった。


 第三席。それがどれほどの地位なのか分からない。だが「席」がつく以上、末端ではない。組織の中枢にいた人間だ。原典の断片を集める組織の中枢に。そしてその組織を裏切り、断片を一つ持ち出し、この島の壁に隠した。


「……父さんが……蒐集院の……」


「リーネ」


「蒐集院の人間だったのか。あたしの父さんが——あの、歯車の紋章の——」


 声が裂けそうだった。怒りと困惑と悲しみが、同時に顔に出ている。


「元、だ。元蒐集院だ。辞めている。そしてこの板を守るために——蒐集院を裏切ったんだ」


 カイの声は低く、静かだった。混乱しているリーネに、一つずつ事実を渡していく。


「リーネの父は、蒐集院の幹部だった。原典の断片を見つけた。だが蒐集院に渡さなかった。守ったんだ。蒐集院を裏切って、この島で、一人で」


「……守った」


「ああ。ナミの証言と一致する。『守るべきものを見つけた』。これだ」


 金属板を壁から外した。石壁がぼろりと崩れた。喰海に侵食された壁の中で、金属板が埋め込まれた部分だけが原型を保っていた。原典の文字が——壁の上部の光る文字が——金属板を守るように配置されている。父が、原典の断片の力で金属板を喰海から守っていたのだ。


 通路の水膜が薄くなり始めた。ナミの潮流にも限界がある。


「戻るぞ」


「……ああ」


 金属板を抱えて、通路を戻った。水膜の上を走る。両側の黒い霧が、通路を狭めようとしている。水が薄くなるたびに、霧が滲み出してくる。足元の石畳が黒ずんでいく。


 境界線を越えた。光の中に出た。


 朝の陽射しが眩しい。喰海の中にいたのは十分にも満たないが、まるで水底から浮かび上がったように、光が目に痛かった。


 膝をついた。反動が来ている。五回の改行。喰海との五回の拮抗。口の中の鉄の味が濃い。唾を吐いた。赤かった。


「カイ!」


 三人の声が同時に飛んだ。


「大丈夫だ。少し、休めば——」


 視界が暗くなった。地面が傾いた——いや、自分が傾いたのだ。


 倒れる前に、誰かに支えられた。


 赤い髪の匂い。潮の匂い。鉄の匂い。三つの匂いが同時にした。三人が、同時に手を伸ばしていた。


「……悪い」


「謝るな。息をしろ」


 リーネの声だ。硬いが、震えてはいない。


「水。飲ませて」


 ナミが水を持ってきた。冷たい水が喉を流れた。体に染みる。


「……金属板は」


「ここにある。あたしが持ってる」


 リーネの手の中に、金属板がある。父の遺産。原典の断片を守るために、蒐集院を裏切った男が遺したもの。


「……読めたか。上の文字」


「原典の文字は読めない。でも——セリカなら何か分かるかもしれない」


「カイさん、見せてください」


 眼鏡の少女が駆け寄ってきた。金属板を受け取り、光に透かす。帳面を広げ、文字を写し始めた。


「これは——金属の性質が普通じゃない。結晶構造が原典の紋様と融合してる。昨日の鍛造実験と同じ原理だ。法則が金属に刻まれてる」


「読めるか」


「原典の文字は読めません。でも金属の分析はできる。この合金の組成、鍛造の手法——時間をください。解析します」


 カイは仰向けに倒れたまま、空を見上げた。マリスティアの空は青い。南側を除けば。


 金属板を手に入れた。父の遺産。原典の断片。蒐集院の影。


 そして——リーネの父が蒐集院の元幹部だったという事実。


 これは始まりだ。答えではなく、問いの始まり。父は何を知っていたのか。原典の断片に何が書かれているのか。喰海を止める鍵とは何か。


 それを解くのは——明日以降だ。今は、空が青いことだけ分かればいい。


 三人の顔が、上から覗き込んでいた。赤い髪。眼鏡。切れ長の目。心配と安堵が混ざった、三つの表情。


 一人で旅をしていた頃は、倒れたら倒れたままだった。起こしてくれる人間がいなかった。起き上がれなければ、そこで終わりだった。


 今は——三人が覗き込んでいる。


 悪くない景色だ。

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