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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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18話 喰海の防衛

境界線の前に四人が立った。


 朝の光が北側の海を照らしている。だが南側には光が届かない。黒い霧が光を吸い、境界線の向こうは昼でも薄暗い。


 姐御が前に出た。潮流で水の壁を張り、境界線の霧を抑えている。毎日の作業だ。だが今日は一人ではない。


「準備はいいか」


「ああ」


「あんたの力——改行って言ったか。あれで何ができるのか、正直あたしには分からない。でも、やるなら今だ。朝のうちが喰海の勢いが弱い」


「朝のほうが弱いのか」


「日が当たってるうちは少しだけ後退する。夜に進む。太陽の法則が——少しは効くのかもしれない」


 光の法則が喰海に対してわずかに抵抗力を持つ。水の法則もそうだ。ナミの潮流が有効なのは、水が法則を保持する力を持っているからだろう。法則が残っているものは、喰海に対する盾になる。


 なら——法則を書き換える力は、法則のない空間に法則を押し込む力にもなりうるか。


「やってみる」


 境界線まで五メートル。それ以上近づくと、皮膚がぴりつく。法則が軋む距離だ。


 右手を伸ばした。境界線の向こう——黒い霧に向けて。


 改行は法則を書き換える力だ。だが、法則がない空間で何を書き換える。ないものを書き換えることはできない。なら——ない場所に、あるものを押し込む。法則の上書きではなく、法則の注入。やったことはない。理論上できるかどうかすら分からない。


 だが——やらなければ、この島は沈む。


「——空気の物理法則、再定義」


 五秒間。


 改行が、喰海の霧に触れた。


 抵抗。書き換えようとする力と、溶かそうとする力がぶつかった。手のひらの先で、二つの力が拮抗している。ぬるい壁を押しているような感覚。押せば沈む。だが沈んだ先に、手応えはない。虚無だ。押す対象そのものがない。


 それでも——押した。


 押し返せた——わずかに。


 境界線が二メートルほど後退した。黒い霧が薄くなり、その向こうに地面が見えた。黒く変色した石畳。朽ちた木の幹。法則を失って崩れかけた建物の壁。喰海の中に沈んだ世界の残骸だ。


 五秒が切れた。


 霧が戻ってきた。押し返した二メートルが、瞬時に埋まる。境界線は元の位置に戻った。


 膝が震えていた。反動だ。喰海の虚無と五秒間拮抗した代償が、体にのしかかっている。


「……押し返せた。だが、維持できない」


「二メートル。五秒で二メートルか」


 ナミが呟いた。声に落胆はない。むしろ——驚きがある。


「あたしの潮流じゃ、一メートルも押し返せない。抑えるのが精一杯だ。あんた、五秒で二メートル押した」


「だがすぐ戻る。意味がない」


「意味はある。押し返せるなら、その間に中に入れる」


 声が硬い。だが目は燃えている。赤い髪の相棒だ。だが目は燃えている。


「五秒で二メートル。その先に父さんの家がある。あと何メートルだ」


「地図によれば、境界線から旧港の船長の家まで約五十メートルだ」


「五秒で二メートル。CT三十秒。一回ごとに二メートル進めるとして、二十五回で五十メートル——」


「そんなに連続で使えない。反動がある。三回が限界だ。六メートル」


 琥珀の目が曇った。六メートルでは家に届かない。


「……方法がある」


 セリカだった。金床に向かうときの、あの真剣な目をしている。


「昨日の観察で分かったんですが、水脈がある場所は侵食が遅い。ナミさんの潮流も効いている。つまり水は喰海に対して法則の保持力がある。なら——」


「改行で押し返した空間に、ナミの潮流で水を流し込む。水が法則を保持して、押し返した分が戻らないようにする」


 カイが続きを言った。セリカの仮説の先が見えた。


「そうです。改行で道を開けて、潮流で固定する。一回ごとに二メートルずつ、水の通路を作っていく」


 腕が組まれた。


「あたしの水で固定できるか分からない。でも——試す価値はある」


「リーネ。お前は俺の後ろについてこい。霧の中に何がいるか分からない。喰海の魔獣が出る可能性がある」


「言われなくても」


 剣の柄に手をかけた。炎刃の赤い光がちらついている。


「セリカ。お前は境界線のこちら側にいろ。中に入るな」


「……分かりました。記録は外からします」


 不満そうだったが、従った。喰海の中に匠刻の使い手が入るメリットはない。セリカの役割は観察と分析だ。


 ◇


 一回目。


「——空気の物理法則、再定義」


 二メートル。霧が退く。間髪入れず、ナミが水を流し込んだ。潮流の水が、押し返した空間の地面を覆う。薄い水膜だが、喰海の霧が戻る速度が目に見えて遅くなった。


 五秒が切れた。霧が押し戻そうとするが、水膜が抵抗している。完全には止められない。だが——三十秒は持った。


「効いてる」


 声に、初めて希望が混じった。


 三十秒。CTが明けた。


 二回目。


「——空気の物理法則、再定義」


 さらに二メートル。合計四メートル。ナミの水が追いかける。水の通路が伸びていく。喰海の霧の中に、四メートルの安全地帯が生まれた。


 だが反動が重い。二回目で、すでに呼吸が乱れている。頭の奥が鈍く痛む。喰海の虚無と拮抗する改行は、通常の改行より何倍も負荷が大きい。法則がない空間に法則を押し込むのは、水中で火を焚くようなものだ。押した瞬間から消される。消される前にまた押す。五秒間、その繰り返しだ。


 口の中に鉄の味がした。まだ血は吐いていない。だが近い。三回目は限界だ。


「——空気の物理法則、再定義」


 六メートル。黒い霧の中に、水で守られた細い通路ができていた。通路の先は、まだ五十メートル近い闇。だが——見えた。


 六メートル先。霧の向こうに、建物の輪郭がある。崩れかけた石壁。窓枠が残っている。かつて人が住んでいた家だ。


「あれは——」


「違う。父さんの家はもっと奥だ。でも——」


 琥珀の目が凝らされた。六メートル先の建物の壁に、何かが光っている。黒く変色した壁面に、光る文字が刻まれていた。喰海の中にあるのに、消えていない。法則が溶ける中で、その文字だけが光を保っている。


「何だ、あれ」


「原典の文字だ」


 カイの目が鋭くなった。あの光を見たことがある。フォルジアで、ナイフの結晶が再配列されたときに浮かんだ紋様。原典の法則が宿る場所に現れる光。


「あの壁に何かが刻まれている。原典の断片か、あるいは——」


「父さんが刻んだものか」


 声が震えていた。


 だが六メートルが限界だった。三回の改行で体が軋んでいる。これ以上は無理だ。通路の水膜も徐々に薄くなっている。ナミの潮流にも限界がある。


「……今日はここまでだ」


「でも——」


「明日、もう一度来る。体力を回復して、もう少し先まで押す。あの壁まであと——」


「十メートルくらいだ」


「なら、あと五回。明日は五回出せるようにする」


 境界線まで戻った。水膜が消え、霧が通路を飲み込んでいく。だが——あの光る文字は消えていない。霧の奥で、まだ光っている。


 ◇


 夕方。ナミの家で食事をした。


 今日の煮込みには根菜が多い。体力を使った後に必要な滋養を、ナミは何も言わずに食事に込めていた。


「あの光る文字。見たことがある」


 食後、カイが口を開いた。


「原典の法則が宿るものに現れる光だ。あの壁には——リーネの父親が何かを刻んだのかもしれない。原典の断片を使って」


「父さんが——原典の断片を持っていた?」


「蒐集院がこの島に来ていた。喰海の近くを調べていた。原典の断片がこの島にあると知っていた可能性がある。そしてリーネの父親は——」


 言葉を切った。ナミを見た。


 切れ長の目が、静かにこちらを見返している。何かを知っている目。昨日、リーネの父の話が出たときに曇った、あの目。


「ナミ。お前、何か知ってるな」


 長い沈黙があった。


 器が置かれた。両手を膝の上に揃え、まっすぐにリーネを見た。


「お前の父さん——船長は、ただの漁師じゃなかった」


 隣で、呼吸が止まった。


「何年も前から、喰海の中に潜っていた。漁に出ると言って、実際は喰海の境界線に向かっていた。一人で。小舟で。何を探していたのか、あたしの父さんも知らなかった。聞いても答えなかった。ただ——目が真剣だった。遊びじゃないって、見れば分かった」


 食卓の上の湯気が、静かに天井に昇っている。誰も動かない。


「最後に海に出た日、船長は言ったんだ」


 姐御の声が、初めて震えた。


「『守るべきものを見つけた。だから、もう少しだけ行かなきゃならない』って」


 食卓が静まり返った。


 琥珀の目から、涙がこぼれた。堪えなかった。堪えられなかった。


 父は何かを見つけていた。喰海の中に。原典に関わる何かを。それを守ろうとして——帰ってこなかった。


「……あの壁の光。あれが、父さんが守ろうとしたものか」


 声が震えている。でも——目は前を向いていた。


「明日、あそこまで行く。絶対に」


 カイは黙って頷いた。


 窓の外、マリスティアの夜空に半分の星が光っている。その半分が、昨日より少し少なくなった気がした。


 時間がない。


 だが——手がかりは見つかった。あの光る文字の向こうに、リーネの父が命をかけて守ったものがある。

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