17話 潮流の姐御
翌朝、三人で喰海の境界線に向かった。
丘を下り、集落を抜け、南へ。歩くほどに風の匂いが変わっていく。海と草の匂いが薄れ、代わりに何もない匂い——匂いの不在が鼻につくようになる。喰海が近い。
境界線は、集落の南端から三百メートルほどの場所にあった。
畑だったのだろう。石垣で区切られた区画が並び、北側にはまだ作物が青々と育っている。だが石垣を一つ越えた先——そこから先が、黒い。
近くで見ると、昨日甲板から見た景色とは印象が違った。遠くからは黒い霧に見えたものが、ここでは空気そのものが重い。境界線の手前に立つだけで、皮膚がぴりぴりする。法則が軋んでいる。喰海はまだここまで来ていないが、その余波が空気を歪ませている。
術式の記述を読み取れる力があれば、この侵食パターンを分析できるだろう。識刻の中にそういう能力を持つ者がいるかもしれない。だが今は、自分たちの目と足で確かめるしかない。
「近づかないでください。その先、鉱石のサンプルを投げ入れてもいいですか」
革鞄から小さな鉱石が取り出された。境界線の向こうに放り投げる。
鉱石が黒い空気に触れた瞬間——色が変わった。灰色の石が、数秒で黒く変色し、表面がぼろぼろと崩れ始めた。十秒後には砂になっていた。
「法則が溶けるって、こういうことか」
声が震えていた。鍛冶師として金属の法則を扱ってきた少女にとって、法則が消滅する光景は、自分の存在基盤を否定されるようなものだろう。
「カイさん。あなたの力で、あの空間の法則を書き戻すことはできますか」
「分からない。改行は既存の法則を書き換える力だ。法則がそもそも存在しない空間で、何を書き換えるのか——試してみないと分からない」
「試しますか」
「今日じゃない。まず情報を集める」
リーネは境界線を黙って見つめていた。その向こうに、自分の家がある。父の記憶がある。手を伸ばせば届きそうな距離だが、伸ばした手が溶ける。
「……行こう。境界線の東側も確認したい」
声は落ち着いていた。感情を押し込めている声だ。
◇
境界線に沿って東に歩いた。
喰海の縁は直線ではない。地形に沿って入り組んでおり、ある場所では集落のすぐ裏まで迫り、別の場所では畑二枚分の余裕がある。侵食の速度が一定ではないのだ。地下の水脈が通っている場所は侵食が遅く、岩盤が露出している場所は速い。水が法則を保持する力を持っているのかもしれない。
カイはその観察を帳面に書き留めようとして——帳面を持っていないことに気づいた。
「これ、使ってください」
帳面が一冊差し出された。何も書かれていない新品だ。旅の荷物に予備を入れていたらしい。
「……借りる」
「差し上げます。記録は鍛冶師の——」
「基本だろ。知ってる」
眼鏡の奥がわずかに緩んだ。覚えていてくれたことが嬉しかったのか、呆れたのか。
境界線の東端に到達した。島の東側は断崖になっていて、その向こうは雲海だ。喰海の霧は断崖から雲海に溢れ出し、黒い滝のように島の縁を流れ落ちている。
「あそこ。人がいる」
リーネが指差した。
断崖の上。境界線のすぐ北側に、人影が立っていた。
長い黒髪。背が高い。女だ。片手に槍のようなものを持ち、もう片手を前に伸ばしている。その手のひらから、水が流れ出していた。
水ではない——水流だ。術式で操られた水が、喰海の境界線に向かって放射されている。水の壁が、霧の侵食を押し返していた。
近づくと、女が振り返った。
二十歳前後。日に焼けた肌。切れ長の目。体格はしっかりしているが、目の下に深い隈がある。何日もこの作業を続けているのだろう。
「あんたたち、冒険者?」
声は低いが、温かい。疲労の底に、人を迎え入れる響きがあった。
「助かる。もう限界だったんだ」
水流が止まった。女が膝をついた。そのまま座り込みそうになるのを、リーネが支えた。
「大丈夫か」
「大丈夫。ちょっと休めば動ける。——あんた、赤い髪だね。もしかして、マリスティアの子?」
「ああ。リーネだ。ここで生まれた」
「リーネ……。リーネって、船長の娘の?」
「知ってるのか」
「あたしの父さんが、お前の父さんと漁仲間だった」
女が立ち上がった。リーネより頭半分ほど背が高い。汗を拭い、髪をかき上げ、三人を見回した。疲れた顔に、笑みが浮かんだ。
「ナミだ。漁師の長女。今はこの島の防衛もやってる。——と言っても、あたし一人でこの有様だけど」
一人。この境界線を、一人で抑えている。水流の術式で喰海を押し返しながら、一人で。
「他に術式の使い手は」
「いない。漁師はいるけど、戦刻を持ってるのはあたしだけ。島の若い連中はほとんど出ていった。残ってるのは年寄りと、あたしみたいに出ていけない馬鹿だけだ」
出ていけない。出ていかない、ではなく。
「あんたの術式は」
「戦刻。『潮流』って言うんだ。水を操る。海の島だから水には困らない。困るのは体力だけ」
潮流。水を自在に操る戦刻。喰海を押し返すのに使っているのだろうが、一人では限界がある。境界線は島の端から端まで続いている。一箇所を押し返しても、別の場所から侵食が進む。
「ずっと一人でやってたのか」
「ここ一年。最初は他にも手伝ってくれる人がいたけど、一人減り、二人減り。今はあたしだけ」
一年。一年間、一人で島を守ろうとしていた。
「あんたたち、何しに来たんだ。物見遊山じゃなさそうだけど」
「父さんが残したものを探しに来た」
「船長の——。そうか」
切れ長の目が少し曇った。何かを知っている目だ。だが、すぐには言わなかった。
「……話は長くなる。立ち話じゃ何だし、うちに来な。飯くらい出すよ」
◇
ナミの家は港の集落の中にあった。漁師の家らしく、壁に網が干してあり、軒先に魚を燻す台がある。中は清潔で、女一人で暮らすには広い。かつては家族がいた名残だ。
台所に立ったナミは、さっきまで境界線で膝をついていた女とは別人のように動いた。手際よく火を起こし、鍋に水を張り、干し魚と根菜と香草を放り込んでいく。
「島の煮込みだ。旨くはないけど腹は膨れる」
「旨いだろ。マリスティアの魚料理は世界一だって——」
「お前の父さんが言ってたんだろ。知ってる。うちの父さんも同じこと言ってた」
リーネが少しだけ笑った。同じ島で育った者同士の、言葉にならない共有がある。
煮込みが出来上がるまでの間、ナミが島の状況を教えてくれた。
喰海の侵食速度は、ここ半年で倍になっている。一年前は南端の港だけだったのが、今は島の三分の一。このペースなら、半年後には北側の集落にも届く。住民は三十人ほどに減った。全盛期は三百人を超えていたという。
「七都市連合に支援を頼んだんだけど、返事がない。マリスティアは小さい島だから、後回しにされてる。大きい島の防衛が優先なんだと」
「蒐集院は」
カイが聞いた。ナミの目が鋭くなった。
「知ってるのか。あの連中」
「名前だけ」
「半年前に来た。二人組。紋章を残していった。何を調べてたかは知らないけど、喰海の近くをうろうろしてた。助けてくれるのかと思ったら、何もせずに消えた」
蒐集院がこの島にも来ていた。喰海の近くを調べていた。原典の断片を探していたのかもしれない。喰海に飲まれた場所には、かつて島の核——原典の断片——があったはずだ。
煮込みが出来上がった。器に盛られた魚と根菜の煮込みは、見た目は素朴だが、匂いがいい。一口食べた。
旨い。
フォルジアの干し肉とも、空路船のパンとも違う。海の島の味だ。魚の出汁が深く、香草の苦味が後から追いかけてくる。体に染みる味。
「旨い」
眼鏡の少女が感動した声を出した。カイも頷いた。リーネは無言で食べている。目が少し赤い。故郷の味だ。
それを見た姐御は、何も言わずに煮込みをおかわりした。器をリーネの前に置く。
「食え。痩せてるぞ」
「……痩せてない」
「痩せてる。船旅で碌なもの食ってないだろ」
姐御だ。初対面の人間に遠慮なく世話を焼く。だがそこに押しつけがましさがない。自然体で人の面倒を見る女。漁師の長女として、この島の人々を支えてきた背骨が、所作の一つ一つに出ていた。
食後。カイが口を開いた。
「喰海の境界線を押し返す方法がある。かもしれない」
切れ長の目が見開かれた。
「本当か」
「試してみないと分からない。だが——俺の力なら、法則を書き戻せる可能性がある」
「あんたの力って、何だ」
「見せたほうが早い。——明日、境界線で」
黙って、こちらを見つめている。値踏みではない。希望を信じていいかどうかを、測っている目だ。一年間、一人で島を守ってきた女の目。何度も期待して、何度も裏切られてきた目。
「……分かった。明日、案内する」
声は静かだった。期待はしていない。でも——排除もしなかった。
それで充分だ。
宿に戻る坂道を上がりながら、リーネが呟いた。
「ナミ。変わってなかった」
「前に会ったことがあるのか」
「子供の頃に一回だけ。でもあの感じ——誰かの面倒を見ずにいられない感じ。全然変わってない」
横で帳面に何かを書いている音がした。
「何を記録してる」
「煮込みのレシピです。聞いておけばよかった」
リーネが笑った。カイも、少しだけ口の端が上がった。
マリスティアの夜空に、半分の星が光っている。昨日より少しだけ、南側の闇が近づいた気がした。




