16話 沈みゆく島
マリスティアが見えたのは、翌日の昼過ぎだった。
甲板に三人が立っている。前方の雲海の上に、青みを帯びた島影が浮かんでいた。他の島とは色が違う。レグノアは灰色の岩、フォルジアは赤い溶岩。マリスティアは——青い。海の色だ。
「あれが……」
「ああ。あたしの故郷だ」
声は静かだった。いつもの威勢のよさがない。琥珀の目が、まっすぐに島を見つめている。
島が近づくにつれて、全容が見えてきた。
マリスティアは他の島より平たい。断崖ではなく、島の縁が緩やかに下がって海に浸かっている。海——といっても、雲海の上に溜まった水だ。空島の中で水が湧く島は珍しい。地下に水脈があり、それが島の表面に溢れ出して浅い海を作っている。海の島と呼ばれる所以だ。
水面が陽光を反射して、島全体が柔らかい光に包まれている。他の島にはない光景だった。空に浮かぶ岩の塊であるはずの島が、ここでは水と緑に覆われて、まるで生き物のように見える。
北側は穏やかだった。港の桟橋が見え、漁船が何隻か停泊している。白い家並みが斜面に沿って広がり、その向こうに緑の丘がある。海風に揺れるオリーブのような木々。美しい島だ。
だが——南側は違った。
島の南半分が、黒い。
雲海の底から這い上がってきた黒い霧——喰海が、島の南側を覆っている。霧というには濃すぎる。まるで黒い液体を島の半分に塗りつけたように、建物も道も木々も、すべてが黒く沈んでいた。
霧の境界線はくっきりとしていて、そこから先には生命の気配がない。境界線の手前にある木は青々と茂り、一歩向こうの木は葉も幹も黒く朽ちている。切り替わりが鮮明だった。法則が溶けるというのは、こういうことだ。木を木たらしめている法則が消えれば、木は木でなくなる。
レグノアの雲海の底で見た黒ずみ。フォルジアの港から遠くに霞んでいた暗い影。それが今、目の前にある。島一つを半分食い潰した現実として。
「……前より、広がってる」
声が硬くなった。拳が白くなるまで手すりを握っている。
「あたしが最後にここを出たときは、南端の港だけだった。今は——島の三分の一が飲まれてる」
隣で息を呑む音がした。帳面を出す手も止まっている。
「あれが……喰海」
「ああ。あらゆるものの法則を溶かす霧だ。触れたものは記述を失う。石は砕け、木は朽ち、人は——」
言いかけて、やめた。リーネの横で言うべきことではない。
鋼翼号が北側の桟橋に向かって降下を始めた。近づくほどに、島の状況が見えてくる。北側の港にも喰海の影響がある。桟橋の木材が一部黒ずんでいる。まだ侵食はされていないが、霧の気配が近づいている証拠だ。
着岸。タラップが降ろされた。
赤い髪が最初にタラップを降りた。石畳に足をつけた瞬間、立ち止まった。
風が吹いた。海の匂いがする。潮と魚と、遠くで干されている網の匂い。レグノアともフォルジアとも違う、水の島の匂い。
「……帰ってきた」
呟きは、ほとんど聞こえなかった。風に攫われて消えた。だが——目が赤くなっていた。泣いてはいない。泣くことを、歯を食いしばって堪えている。
カイは何も言わなかった。隣に立った。それだけだ。
反対側にも人の気配。革鞄を背負い直し、周囲を見回している。鍛冶師の目で島を観察しているのか、それとも初めて見る海の島に圧倒されているのか。
「きれいな島ですね」
その一言に、リーネが少しだけ笑った。
「だろ。——きれいだったんだ。昔は、もっと」
◇
港の集落を歩いた。
人は少ない。かつては賑わっていたであろう漁師の家々が、半分以上閉まっている。窓に板が打ちつけられた家。庭に雑草が伸び放題の家。玄関先に干されたままの漁網が、もう何ヶ月も使われていない色をしていた。南側の港が使えなくなってから、多くの住人が島を出たのだろう。残っているのは、出ていく場所がない者か、出ていく気がない者だけだ。
残っている人々の顔には、疲労と諦めが滲んでいた。すれ違う漁師たちの視線が重い。よそ者——冒険者に向けられる目だ。助けに来たのか、それとも物見遊山か。その判別を、彼らはもう何度もしてきたのだろう。
すれ違う老人が、赤い髪を見て立ち止まった。
「リーネか……? 船長の娘の」
「おじさん。久しぶり。元気そうで良かった」
「元気なもんか。膝が痛い。腰が痛い。喰海は来る。いいことなんかありゃしない」
老人はそう言いながらも、リーネの顔を見て少しだけ表情が緩んだ。
「お前が帰ってくるとは思わなかった。もう出ていったと思ってた」
「帰ってきた。父さんが残したものを探しに」
「船長の……そうか。あの人は——」
老人の声が曇った。何かを言いかけて、飲み込んだ。
「……話は後でな。まずは宿を探せ。北の丘の上に、まだやってる宿がある」
老人が去った。リーネの表情は読めなかった。故郷に帰った喜びと、変わり果てた島への痛みが、同じ顔の上で拮抗している。
北の丘に向かって歩く。坂道を上がるにつれて、島の全景が見えてきた。
北側の集落。中央の丘。そして——南側の黒い霧。
ここから見ると、喰海の境界線がはっきりと分かった。島のちょうど真ん中あたりに、見えない壁があるかのように、そこから先がすべて黒い。境界線は完全な直線ではなく、じわじわと北に向かって滲んでいる。ゆっくりと、だが確実に。
「あと何年持つ」
カイが聞いた。
「分からない。一年か。半年か。加速してるらしい」
「加速——酒場の冒険者も同じことを言っていた」
「ああ。世界中で喰海が加速してる。この島だけじゃない」
だがこの島は、他の島より切実だ。喰海と直接接している。最前線ではなく、すでに半分飲まれている。
丘の上の宿についた。石造りの二階建て。壁が白く、屋根が青い。マリスティアの建物はどれも白と青だ。海と空の色を映している。
海が見える部屋を三つ取った。窓からは北側の青い海と、南側の黒い霧の両方が見える。一つの窓の中に、生と死が同居していた。部屋に荷物を置いて、しばらく窓の外を見ていた。波の音が聞こえる。レグノアにもフォルジアにもなかった音だ。穏やかなのに、どこか切迫している。この波がいつ黒い霧に飲まれるか、誰にも分からない。
◇
夕方。宿の食堂で遅い昼食を取った。
魚の煮込み。港で獲れた魚を、島の香草で煮たもの。素朴だが、旨い。フォルジアの干し肉と空路船のパンに慣れた舌には、生の魚料理が染みた。
「旨い」
セリカが目を丸くしていた。フォルジアは金属の島だ。海の幸とは縁がない。
「マリスティアの魚は世界一だ。父さんがいつもそう言ってた」
声が、少しだけ柔らかくなった。故郷の食事。父の記憶。この島に来てから、リーネの声には常に二つの温度がある。懐かしさと痛み。どちらか一方だけにはならない。
「明日から動くぞ」
カイが言った。
「父さんが残したもの。探すんだろう」
「ああ。でもその前に、島の状況を確認したい。喰海の境界線がどこまで来ているか。住人がどのくらい残っているか。使える桟橋は北側だけなのか」
「まるで作戦会議だな」
「作戦会議だ」
少し笑った。この島に来てから初めての、力の入っていない笑い。
「あたし一人で来てたら、真っ先に南側に突っ込んでた。作戦とか考えずに」
「だから三人で来た」
「……ああ。そうだな」
帳面が開かれた。
「島の地図はありますか? 喰海の境界線と、主要な建物の位置を記録しておきたいんですが」
「宿の親父に聞けばあるだろう。あんた、こういう時は頼りになるな」
「記録は鍛冶師の基本です」
三人で地図を広げた。宿の食卓に、マリスティアの古い地図が敷かれる。リーネが島の地形を説明し、セリカが帳面に写し、カイが喰海の境界線を書き込んでいく。
北側の港。中央の丘。南側の旧港——ここはもう黒い霧の中だ。リーネの実家があった場所。父の船が停泊していた桟橋。すべてが喰海の向こうに沈んでいる。
細い指が、地図の南側をなぞった。
「ここ。父さんの家があった場所だ。何かを残したなら、ここにある」
「喰海の中だ」
「分かってる」
「普通に入れば法則が溶ける。死ぬ」
「分かってる。だから——あんたが来たんだろ」
琥珀の目がカイを見た。真っ直ぐだ。
改行。法則を書き換える力。喰海が法則を溶かすなら、改行で法則を書き戻せるかもしれない。理論上は。試したことはない。
「……明日、境界線を見に行こう。近づいてみないと分からない」
「ああ」
地図を畳んだ。窓の外は暗くなり始めていた。マリスティアの夕暮れは早い。南側の喰海が光を吸っているのだ。
部屋に戻る前に、廊下の窓から空を見上げた。星が出始めている。
リーネが言っていた。マリスティアの星は近い。水面に映って、上も下も星で。父が世界で一番きれいな場所だと言っていた。
今夜の空には、星が半分しかない。南側の空は喰海の黒い霧に食われて、星が見えない。
半分の星空。
それでも——きれいだった。半分でも。




