15話 新しい刃
鋼翼号が出港して、半日が過ぎた。
フォルジアの赤い島影はとうに雲海の向こうに沈み、周囲には白い雲と青い空しかない。風読み号よりも小さな船体は気流の影響を受けやすく、ときどき大きく揺れた。
意外なことに、赤い髪の相棒は今回船酔いしていなかった。
「慣れた」
「二日で?」
「海の娘なめるな。適応力だけは自信ある」
甲板の手すりに腕を乗せ、堂々と風を受けている。前回は青い顔で手すりにしがみついていた女とは思えない。人体の適応力は侮れない。
穏やかな航海だった。空賊の気配もない。フォルジアからマリスティアへの南回り航路は、喰海の影響で便数が減っている分、空賊も寄りつかないらしい。獲物が少ない海域に張る意味がない。
昼食は船の食堂で干し肉とパンの簡素な食事を取った。リーネが「ナミって子が料理上手いんだよな。マリスティアの」と唐突に言った。
「知り合いか」
「父さんの知り合いの娘。子供の頃に一度だけ会った。漁師の長女で、料理が旨いって評判だったらしい。まだ島にいるかは分からないけど」
マリスティアの話をするとき、リーネの声は少しだけ柔らかくなる。故郷の話。父の記憶に繋がる場所。だがその柔らかさの下に、緊張がある。南側の桟橋は閉鎖されている。喰海が来ている。帰る場所が、沈みかけている。
午後。甲板で風に当たっていると、船員が駆けてきた。
「お客さん。後方から小型船が接近してます。空賊じゃない。一人乗りです」
空賊ではない。一人乗り。
カイは立ち上がって船尾に向かった。リーネもついてくる。
船尾の手すりから後方を見た。雲海の上を、小さな影が近づいてくる。一人乗りの小型飛行艇。フォルジアの港で見かけた型だ。鍛冶師が島の外縁で鉱石を採取するために使う作業用の艇。速度は空路船より遅いが、小回りが利く。
影が近づいてくる。
赤い塗装。フォルジアの船だ。鍛冶師が島の外縁で使う型。外洋を飛ぶようには設計されていない。それがここにいる。気流の荒い雲海の上を、半日以上飛んできたことになる。無茶だ。風が変われば簡単に落ちる。
さらに近づく。操縦席に、小さな人影が見えた。
風にはためく栗色の髪。ずれた眼鏡。煤で汚れたエプロン——は着ていない。代わりに、旅装に着替えている。革のジャケットに厚手のズボン。背中に大きな革鞄を背負い、腰に工具袋をぶら下げている。工房を出るときに着替えたのだろう。追いかけることを、昨夜のうちに決めていた。
「……嘘だろ」
隣で呟く声がした。
飛行艇が鋼翼号に横付けした。船員が困惑した顔でロープを投げ、飛行艇が船体に固定される。
タラップが降ろされた。
眼鏡の少女が甲板に上がってきた。息を切らしている。髪が風で乱れ、眼鏡が曇っている。革鞄は体の半分ほどもある大きさで、中から金属がぶつかる音がしていた。工具を詰め込んできたのだ。
甲板の上で、三人が向かい合った。
「……何してる」
「追いかけてきました」
息を整えながら、まっすぐにカイの目を見た。眼鏡の奥の目に、迷いがない。
「昨日の夜、ずっと考えてました。あの鍛造実験の結果を。あの紋様を。金属板に写しを刻みながら——気づいたんです。写しじゃ足りない。あの力の傍にいないと、先に進めない」
「鍛冶師は一人で打つものだと言ってたな」
「言いました。撤回します」
きっぱりと言った。早口ではない。一語一語に重さがある。
「一人で打てるものには限界がある。私の鍛魂だけじゃ、あの紋様は二度と作れない。あなたの力が必要です。鍛冶師として——もっと先に行きたい」
「俺たちはマリスティアに向かっている。鍛冶とは関係ない。沈みかけた島に行くんだ。危険がある」
「知ってます。港が閉鎖されてることも、喰海が来てることも。酒場で聞きました」
出発前に情報を集めていた。この少女は衝動で飛んできたのではない。状況を理解した上で、それでも追いかけてきた。
「あなたたちが戦う場所に鍛冶師がいれば、武器を直せる。強化できる。鍛魂で一時的に性能を上げることもできる。役に立てます」
論理的だ。感情ではなく実用で説得しようとしている。この少女らしい。だが——声が少し震えていた。実用だけではないことが、その震えで分かる。
「工房はどうする」
「閉めてきました。炉の火を落として、完成品を棚に上げて、入口に『しばらく留守にします』の札を掛けてきました」
「しばらくって、いつまでだ」
「分かりません。でも——帰る場所はなくなりません。工房は逃げない。でもあなたたちは行ってしまう」
赤い髪が腕を組んで聞いていた。口を挟まない。カイの判断を待っている。
カイはセリカを見た。
旅装に着替えた小さな体。背中の大きな革鞄。工具袋。ずれた眼鏡。フォルジアからここまで、一人乗りの飛行艇で半日飛んできた。作業用の艇で外洋を飛ぶのは、相当な無茶だ。気流が荒れれば落ちる。それを承知で追いかけてきた。
「鍛冶師は一人で打つものだ」と言った少女が、「一人じゃ足りない」と言うために、半日飛んできた。
「……一つ聞く」
「何ですか」
「お前、飛行艇の操縦免許は持ってるのか」
眼鏡の奥の目が泳いだ。
「……鍛冶師ギルドの作業用免許は持ってます。外洋免許はありません」
「無免許で外洋を飛んできたのか」
「結果的には、はい」
隣で吹き出す声が上がった。声を上げて笑った。甲板に笑い声が響く。船員たちが何事かとこちらを見ている。
「気に入った。あんた、無茶の方向性が間違ってるけど、嫌いじゃない」
「褒められてますか?」
「褒めてる。たぶん」
カイは黙っていた。
蒐集院の影。校正者の脅威。喰海。マリスティアの沈みゆく港。これから向かう先には危険がある。セリカを連れていけば、その危険に巻き込むことになる。改行の力に近づきすぎた人間は法則の歪みに巻き込まれる。リーネ一人ですら、その影響を気にしている。もう一人増えることは——
だがこの少女は、すでにここにいる。半日の外洋飛行を経て、無免許で、工具を背負って、甲板の上に立っている。追い返してフォルジアに帰すことはできる。だが一人乗りの飛行艇で外洋を戻すほうが危険だ。
理屈はそうだ。だが本音は——もう理屈だけで判断していない自分がいる。
ポケットの中の金属板に触れた。鍛魂と改行の融合紋。昨日セリカが一晩で刻んだ記録。この小さな板を作った手が、今、目の前にある。
「……勝手にしろ」
眼鏡の奥がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「礼はいい。それより——船長に話を通さないと、無賃乗船になる」
「あ。お金——」
「銀貨は持ってるのか」
「鍛造用の鉱石なら持ってきましたけど……」
「金がないのか」
「工房を閉める準備で忙しくて、換金する時間がなかったんです」
隣でまた笑い声が上がった。今度はカイも、口の端が少しだけ上がった。
「——笑った」
眼鏡の奥の目が丸くなった。
「カイさん、今笑いましたよね」
「笑ってない」
「笑った。初めて見た」
「見間違いだ」
「見間違いじゃない。記録します」
「するな」
横から「あたしも見た」と追い打ちをかけた。二対一だ。勝てない。
船長に事情を説明し、追加の船賃を払った。カイの懐から。鉱石は受け取らなかった。何の鉱石かも分からないし、換金できるかも分からない。
眼鏡の少女に船室を割り当て、荷物を降ろさせた。革鞄の中身は、小槌が三本、火箸、鑢、砥石、鉱石のサンプルが十数種、帳面が五冊。工房を丸ごと背負ってきたようなものだ。
「これ全部必要なのか」
「鍛冶師は道具が命です。身一つでは仕事になりません」
冒険者の荷物は軽い。鍛冶師の荷物は重い。この先、移動のたびに問題になるだろう。だがそれは明日考えればいい。
◇
夕暮れ。甲板に三人が並んだ。
手すりに腕を乗せ、雲海に沈む夕日を見ている。赤い光が三人の顔を照らしていた。空の端から端まで、橙と紫のグラデーションが広がっている。
左にリーネ。右にセリカ。真ん中にカイ。
二人で始まった旅が、三人になった。レグノアの広場で赤い髪に見つかり、フォルジアの路地で眼鏡に見つかった。二度とも、見つけに来たのは向こうだ。
隣から「マリスティアまであと一日だな」と呟きが漏れた。反対側では帳面に何かを書きつけている。たぶん今日の飛行艇の燃費でも記録しているのだろう。
「にぎやかになったな」
赤い髪が言った。
「ああ」
「嫌か?」
「……嫌じゃない」
嫌じゃない。三人分の足音。三人分の息遣い。三人分の影が、甲板に長く伸びている。
一人で始めた旅だった。一人で渡るつもりだった。
気がつけば、三人になっていた。明日、リーネの故郷が見える。
お読みいただきありがとうございます。
無免許で外洋を飛んでくる鍛冶師。「一人で打つ」と言った少女が、工房を閉めて追いかけてきました。
「笑った。初めて見た」——二対一には勝てません。
次話、雲海の向こうにリーネの故郷が見えます。
南側の港は閉鎖されている。喰海が、来ている。
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