14話 セリカの過去
出発の朝。
荷物をまとめて宿を出た。フォルジアの朝は今日も熱い。溶鉱炉の煙が朝焼けに混じって、空の半分を薄い橙色に染めている。空路船の出港は昼前。まだ時間がある。
「工房に寄っていくか」
隣を歩くリーネが聞いた。答える前に、もう路地の方へ足が向いていた。
◇
セリカの工房は開いていた。いつもの通り。扉を閉めるという概念がこの少女にはないらしい。
中に入ると、金床の上に何かが置かれていた。布に包まれている。セリカは炉の前にいた。火は落ちている。エプロンを外し、作業台を拭いていた。片付けをしている。
「おはようございます。出発の前に来てくれると思ってました」
「なぜ」
「ナイフの調子を確認したいだろうと思って。あと——これを渡したかったので」
金床の上の包みを手に取り、カイに差し出した。
受け取る。布を開いた。
小さな金属板だった。掌に収まる大きさ。表面に、昨日の鍛造実験で生まれたあの紋様——鍛魂と改行の融合紋——が刻まれている。
「昨日の実験の記録です。鋼材そのものは私が保管しますが、紋様の写しをお渡ししたくて。もし他の鍛冶師にこれを見せれば、鍛魂と——あなたの力の可能性が伝わるかもしれない」
「他の鍛冶師に見せる予定はない」
「でも、いつか必要になるかもしれない。武器が必要になったとき——私じゃない鍛冶師に頼むこともあるでしょう。そのとき、この紋様が設計図になります」
押しが強い。職人としての合理性なのか、離れがたさの裏返しなのか。おそらく両方だ。
金属板をポケットにしまった。
「……ありがとう」
「はい」
小さな声だった。眼鏡の奥の目が少しだけ潤んで見えたが、すぐに瞬きで消えた。
リーネが工房の壁に並んだ完成品を見ていた。ナイフ、小刀、鶴嘴の先端。どれも刃紋が美しい。
「セリカ。一つ聞いていいか」
「何ですか」
「あんた、師匠がいないって言ったよな。独学だって」
「はい」
「でも、鍛魂は匠刻だろ。刻印術式は誰かに教わるか、自分で開花させるかだ。独学で開花させたのか」
セリカの手が止まった。作業台を拭く布が、同じ場所を二度擦っていた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「覚えてないんです。鍛魂が使えるようになった瞬間を」
声の調子が変わった。いつもの早口ではない。ゆっくりと、言葉を選ぶように話している。
「物心ついた頃には、もう使えていました。七つか、八つの頃。炉の前に立って、金属に触れたら光った。それだけです。怖くはなかった。むしろ——嬉しかった。金属が応えてくれた気がして」
「それ以前の記憶は」
「あります。フォルジアで生まれて、両親は鍛冶師で——普通の子供時代だったと思います。でも、五歳から七歳くらいの間が、ぼんやりしてるんです。断片はある。白い部屋にいた記憶とか、知らない大人に手を引かれた記憶とか。腕に何かを当てられた——痛かったような、温かかったような。でもそれが夢なのか現実なのか分からなくて」
「腕に」
「はい。ここ」
左手の袖を少し捲った。内側に、薄い傷痕がある。鍛冶の火傷とは違う。細い線が二本、平行に走っている。
「子供の頃からあるんです。何でつけたか覚えてない。両親に聞いたこともあるんですけど、転んだんだろうって。でも転んでこんな傷、つきますかね」
つかない。平行に走る二本の線は、転倒の傷ではない。切開か、あるいは——刻印の調整だ。
白い部屋。知らない大人。
カイの背筋に、冷たいものが走った。
蒐集院の施設は、白い壁で統一されているという噂を聞いたことがある。酒場で。レグノアで。あの夜、壁に刻まれた歯車と書物の紋章。蒐集院は原典の断片を集めている。そして——原典に関わる力を持つ人間にも、興味を持つ。
匠刻の「鍛魂」は、金属に術式の記憶を刻む力。それは匠刻の中でも異端だ。通常の匠刻は形を整える。強度を上げる。温度を制御する。だが鍛魂は——記憶を刻む。法則に触れている。匠刻の皮を被った、もっと深い力かもしれない。
蒐集院が幼いセリカに目をつけた。施設に連れてきた。刻印を「調整」した。鍛魂を開花させた。そして記憶を消した——
推測だ。証拠はない。だが断片は揃いつつある。白い部屋。知らない大人。腕の傷痕。そして——七歳で突然使えるようになった、匠刻の枠を超えた術式。
蒐集院は原典の断片を集めている。だが断片だけではない。原典に関わる力を持つ人間をも「収集」しているとしたら。カイの改行を追っているのと同じ理由で、セリカの鍛魂にも手を伸ばしていたとしたら。
歯車と書物の紋章。あの紋章が、セリカの幼少期にも影を落としていた可能性。
「両親は?」
「います。普通の鍛冶師です。ギルドの下請けで農具を作ってる。あまり会わないけど」
「会わない?」
「私が独立してからは。工房が離れてるし、お互い忙しいので」
淡々としている。だが「あまり会わない」という言葉の裏に、もっと深い断絶がある気がした。両親が鍛冶師で、娘も鍛冶師。普通なら同じ工房で働く。独立したとしても、この島は狭い。会おうと思えば毎日会える距離だ。
それでも「あまり会わない」。才能ゆえに距離を置かれているのは、ギルドの鍛冶師たちだけではないのかもしれない。あるいは——記憶の空白の時期に、何かが変わったのかもしれない。子供が二年間いなくなって戻ってきたら、別人のような才能を持っていた。親にとって、それはどういう経験だろう。
「白い部屋の記憶、気になったことは」
「子供の頃は怖かった。でもだんだん薄れて——今はもう、夢みたいなものです。鍛魂が使えることのほうが大事だから。記憶がなくても、腕はある。それで充分です」
強がりではなかった。本心だ。この少女は、自分の力を肯定している。出自がどうあれ、手から生まれるものは本物だと信じている。
だがカイには分かる。記憶の空白は、空白のまま終わらない。いつか——その穴を覗き込む日が来る。
言うべきか迷った。蒐集院の可能性を。だが証拠がない。推測だけで不安を与えるべきではない。この少女は今、自分の力で立っている。その足元を不確かな憶測で揺らすのは——
「カイ。そろそろ出ないと船に間に合わないぞ」
リーネの声で思考が切れた。時間を見た。もう二時間も経っている。話し込んでいた。
「……そうだな」
立ち上がった。セリカが工房の入口まで来た。
「マリスティアに気をつけて。喰海が来てるんでしょう」
「ああ」
「ナイフ、大事に使ってください。あの結晶配列なら——」
「普通の鋼材の三倍は持つ。昨日聞いた」
「覚えてくれてたんですね」
少しだけ笑った。眼鏡がずれた。直さない。
「それと——もし。もし武器が必要になったら」
声が小さくなった。
「ここに来てください。何でも作ります」
何でも。その一言に、鍛冶師としての矜持と、もう一つ——言葉にならない何かが込められていた。
「覚えておく」
それだけ答えて、路地を出た。
振り返ると、眼鏡の少女が工房の入口に立っている。エプロンを外した姿は小さい。鍛冶師というより、普通の十七の少女に見えた。小さく手を振った。不器用な動作だった。戦闘中のリーネの無駄のない動きとは正反対の、ぎこちない手の振り方。槌を振るう手は正確なのに、手を振る動作だけが不慣れだ。あまり人を見送ったことがないのだろう。
路地を曲がった。もう見えない。
「あの子の話——白い部屋の記憶。気になるか」
前を向いたまま、隣から声が飛んできた。
「ああ」
「蒐集院だと思うか」
鋭い。この女はいつもそうだ。
「……分からない。だが可能性はある」
「言わなかったな。あの子に」
「証拠がない。不安にさせるだけだ」
「優しいな」
「優しさじゃない。判断だ」
「あんたの判断って、だいたい優しさだよ」
否定しなかった。できなかった。
港に向かう通りを歩く。フォルジアの街が、昼に向かって活気を増していく。槌の音が重なり、炉の煙が昇り、職人たちが声を掛け合っている。この島は今日も金属を打っている。あの路地の奥の小さな工房でも。
◇
南回り航路の空路船「鋼翼号」。フォルジアの南桟橋に停泊している。風読み号より一回り小さい。船体に赤い塗装が施されていた。鉄の島らしい船だ。
乗船手続きを済ませた。マリスティアまで一日半。北側の桟橋に着く。南側は閉鎖中。
タラップを上がった。甲板から、フォルジアの島が一望できた。溶鉱炉の黒い塔。同心円の街並み。あの路地の奥に、小さな工房がある。今もあの少女は何かを打っているのだろうか。
隣で赤い髪が足を止めて、島を振り返った。
「また来ることはあるかな」
「分からない」
「あの子がいるなら、来る理由にはなるな」
何と答えるべきか迷っていると、汽笛が鳴った。出港の合図だ。
浮遊石が光り、船体が浮き上がる。フォルジアの赤い島が、ゆっくりと小さくなっていく。溶鉱炉の煙が最後まで見えていた。
甲板の手すりに腕を乗せた。風が外套を膨らませる。
ポケットの中に、金属板がある。鍛魂と改行の融合紋。セリカが一晩で作った記録。この小さな板の中に、あの少女の夢と技術と、言葉にならなかった想いが刻まれている。
白い部屋の記憶。蒐集院の影。セリカの才能が天然のものなのか、それとも——
答えは出ない。今は出さなくていい。
前方に、海の色を映した島影が霞んでいる。マリスティアはまだ見えない。だがその方角に、リーネの故郷がある。
旅は続いている。レグノアで始まり、フォルジアで一人増え——いや。まだ増えてはいない。セリカは島に残った。
だが——あの槌の音は、もう忘れられない。




