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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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11話 鍛冶師の娘

工房は狭かった。


 二人が入ればいっぱいになる程度の空間に、炉と金床と工具棚が詰め込まれている。壁には鍛冶用の道具が整然と掛けられ、棚には鉱石のサンプルが瓶に入って並んでいた。瓶にはそれぞれ、几帳面な文字でラベルが貼られている。鉱石の名前、産地、硬度、融点。小さいが、隅々まで手入れが行き届いている。物を作る人間の部屋だ。


 炉はまだ熱を持っていた。さっきまで何かを打っていたのだろう。金床の上に槌の跡が新しく光っている。壁の一角に、完成品らしきナイフや小刀が数本掛けられていた。どれも刃紋が美しい。大通りの大きな工房で売られている量産品とは、明らかに質が違った。


 眼鏡の少女は工房の奥にナイフを持ち込み、作業台の上に載せた。魔導灯を近づけ、眼鏡の位置を直す。


「座って。すぐ終わらないから」


 椅子はなかった。カイは壁に背を預け、リーネは入口の柱に腰を下ろした。


「あの子、客の名前も聞かずにナイフ持ってったぞ」


「職人ってのはああいうものなのか」


「知らない。でも嫌いじゃない」


 こちらの会話は聞こえていないようだった。ナイフに集中している。刃を光に透かし、角度を変え、指の腹で刃紋をなぞっている。ときどき何かを呟いている。早口で、聞き取れない。


「——ここの結晶配列が九度ずれてる。でも破断じゃない。外圧でもない。結合エネルギーそのものが書き換わった痕跡……ありえない。普通の術式じゃこうならない。匠刻で金属をいじれる鍛冶師はいるけど、結合の法則自体を変えるなんて——」


 独り言だった。だが、その独り言の中身が怖いほど正確だ。


 この少女は、ナイフの損傷から改行の性質をほぼ正確に推測している。「結合の法則自体を変える」——まさにそれが改行だ。匠刻の鍛冶師なら金属の形を変えることはできる。だが法則そのものを書き換える力は、匠刻の範疇にはない。それを、ナイフの傷ひとつから見抜いた。


 壁に掛かった完成品を見た。あの美しい刃紋。金属の結晶を理解していなければ出せない紋様だ。この少女は金属を「見える」のだろう。鍛冶師としての目が、常人には見えない世界を捉えている。


 眼鏡が振り返った。レンズの奥の目がまっすぐにカイを捉えている。


「あなた、何をしたんですか。このナイフに」


「……何も。近くにあっただけだ」


「近くにあっただけで法則が歪む? 何の近くにあったんですか」


 鋭い。誤魔化しが通じない目だ。リーネとは違う種類の鋭さ。リーネは感覚で人を見抜く。この少女は理屈で物を見抜く。


「答えなくてもいいです。でも一つだけ確認させてください」


 ナイフが差し出された。


「これに、もう一度同じことをしてください」


「同じこと?」


「この歪みを起こした力。もう一度かけてほしいんです。変化の過程を見たい」


 横から視線を感じた。どうする、という目。


 迷った。改行を見せるということは、力の正体を晒すということだ。レグノアでは隠し通そうとした。蒐集院の目がある。校正者の影がある。フォルジアにまで追手が来ているかは分からないが、用心するに越したことはない。


 だが——この少女は、ナイフの傷だけで真実の八割に辿り着いている。隠しても時間の問題だ。それに、ナイフを直してもらう必要がある。直すためには、歪みの正体を鍛冶師が理解していなければならない。


 リーネを見た。小さく頷いた。お前が決めろ、という目。


「……離れていろ。半径三十メートル以内に影響がある」


 眼鏡の奥の目が見開かれた。早口が止まった。それだけで、何か重大なことが起きると察したのだろう。


 工房の外に出た。路地の奥。人通りはない。午後の陽射しが路地の片側だけを照らし、もう片側は影に沈んでいる。遠くで溶鉱炉の低い唸りが聞こえている。


 ナイフを地面に置き、三歩下がった。セリカとリーネはさらに後ろにいる。セリカが何かを書きつけるための帳面を手にしていた。記録する気だ。


 右手を伸ばした。


「——金属結晶構造、再配列」


 五秒間。ナイフの刃に変化が起きた。


 目に見える変化ではない。だが——空気が揺れた。ナイフの周囲の光がわずかに歪み、刃の表面に細かな模様が浮かんでは消えた。結晶構造が書き換わり、元に戻ろうとし、また書き換わる。五秒間の拮抗。世界の法則と、カイの意志が、小さなナイフの中でせめぎ合っている。


 背後で、帳面に何かを書きつける音が聞こえた。セリカだ。ペンの音が速い。見ている。記録している。この少女は、改行の五秒間を一秒も無駄にしていない。


 改行が切れた。法則が元に戻る。ナイフが地面の上で静かに光っている。刃の表面に、さっきはなかった紋様がうっすらと浮かんでいた。結晶が整列した証だ。


 小さな足音が駆け寄ってきた。ナイフを拾い上げ、刃を光に透かす。指で弾く。


 澄んだ音がした。さっきの鈍い音ではない。


「直った——いや、違う。直ったんじゃない」


 眼鏡の奥の目が、炉の火よりも明るく燃えていた。


「結晶が再配列してる。元の構造より整ってる。法則の書き換えが、一瞬だけ金属を『理想形』に近づけた。不純物の配置すら最適化されてる。これは——」


 早口が加速する。もう止まらない。


「最高の素材だ」


 叫ぶように言った。両手でナイフを握りしめ、カイを見上げている。頬が紅潮し、眼鏡が少しずれている。


「あなたの力——術式なのか何なのか分からないけど——それで金属に触れたら、鍛造の常識が全部変わる。結晶の配列を任意に操作できるなら、合金の限界を超えた強度が出せる。硬度と靭性の両立ができる。今まで不可能だった——」


「落ち着け」


 後ろから赤い髪の手がセリカの肩を掴んだ。


「あんた、息してない。呼吸しろ」


 深呼吸。一回。二回。三回。少し落ち着いた。だが目の輝きは消えていない。


「……すみません。取り乱しました」


「いや。その——情熱は伝わった」


 カイの声が少しだけ柔らかかった。この少女の興奮には、打算がない。権力欲も支配欲もない。純粋に、金属と向き合う職人としての歓喜だ。改行を「力」ではなく「素材」として見た人間は、初めてだった。


「あなたの力って、術式ですか」


「……似たようなものだ」


「似たような、ってことは違うんですね。戦刻でも匠刻でも識刻でもない。分類できない力」


 鑑定士が水晶球を壊されたときと同じ結論に、この少女はナイフ一本で辿り着いている。


「詮索するな、と言いたいところだが——」


「言わないでください。詮索じゃなくて分析です。鍛冶師として必要な情報を集めてるだけです」


 リーネが横で「詮索と分析の違いって何だ」と呟いた。セリカは聞こえていないふりをした。聞こえていなかった可能性もある。


「名前、聞いてなかった」


「セリカです。セリカ・フォージ。フォルジアの鍛冶師です。十七歳です。師匠はいません。独学です」


「全部聞いてない」


「聞かれると思って先に答えました」


 隣で吹き出す声が聞こえた。


「あんた、面白い子だな」


「よく言われます。褒め言葉として受け取っていいですか?」


「好きにしろ」


 ナイフが返された。受け取って、刃を弾いた。澄んだ音。以前より良い。改行で結晶構造を再配列した結果、元のナイフより品質が上がっている。長く使い込んで手に馴染んだナイフだが、今は少しだけ別物に感じる。同じ形で、中身が変わった。


「このナイフ、預かっていいですか。ちゃんと研ぎ直して、刃紋を整えます。結晶が再配列されたなら、研ぎ方も変えないと本来の切れ味が出ません。明日の朝には返せます」


「頼む。いくらだ」


「お金はいりません」


 きっぱりと言った。迷いのない声だ。


「代わりに、一つだけ。あなたの力で金属に触れる瞬間を、もう一度見せてください。今度は私の素材で。鍛造の途中で、あの力をかけたら何が起きるか——試したいんです」


 カイはセリカを見た。眼鏡の奥の目。真剣だ。遊びではない。鍛冶師としての知的好奇心が、この少女の全身を突き動かしている。


 横から赤毛の相棒が口を挟んだ。


「あたしたち、明後日の朝には出発するんだ。時間ないぞ」


「明日の朝までにナイフを仕上げます。鍛造実験はその後。午前中に終わります」


「段取りいいな」


「鍛冶師は段取りが命です」


 カイは少しだけ目を細めた。


「……いいだろう。明日の午前中だけだ」


 眼鏡の奥がぱっと明るくなった。ずれた眼鏡を直すのも忘れて、もうナイフを工房に持ち帰ろうとしている。


「あ。名前。あなたの」


「カイ」


「カイさん。明日、必ず来てください。朝一番で」


 工房の中に消えていった。扉も閉めない。数秒の沈黙の後、槌の音が聞こえ始めた。一定のリズム。乱れのない、正確な音。カンカンカン、と三拍子。間を置いて、また三拍子。あの音を聞いてこの工房に足を止めたのだと、今さらながら思い出した。


 路地を出て、中間層の通りに戻った。夕暮れが近い。溶鉱炉の煙が西日に染まって、空が赤とオレンジの帯に分かれている。フォルジアの夕焼けは煙のせいで独特だ。


 隣から声がした。


「変な子だな」


「ああ」


「でも——腕は本物だ。あのナイフの音の違い、あたしでも分かった」


「ああ」


「あんた、返事が全部同じだぞ」


 否定しなかった。考えていたのだ。


 改行を「素材」と呼んだ少女。力ではなく、道具ではなく、素材。壊す力でも支配する力でもなく、作るための素材。


 孤児院では怖がられた。レグノアでは隠した。酒場では噂になった。だが——あの眼鏡の少女は、怖がりもせず、畏れもせず、ただ目を輝かせた。


 そういう見方をする人間がいるとは、思わなかった。


 フォルジアの空に、溶鉱炉の煙が昇っている。明日の午前中。約束は一度だけ。


 だが——一度では終わらない予感が、すでにしていた。

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