11話 溶鉱炉の島
フォルジアは、熱い島だった。
空路船がフォルジアの北桟橋に接岸したとき、最初に感じたのは風の温度だった。レグノアの風は澄んでいた。ここの風は重い。鉄と煤と、何かが燃えている匂いを含んだ、熱い風。
タラップを降りた。石畳が熱い。靴底から伝わる温度が、レグノアとまるで違う。島全体が溶鉱炉の熱を蓄えているのだ。リーネが深呼吸して、顔色を取り戻していく。二日間の船酔いから解放された足は、まだ少しふらついている。
「……地面って最高だな」
「島だ。地面ではない」
「理屈はいい。揺れないだけで天国だ」
桟橋から見上げると、フォルジアの全景が目に入った。
島の中央に、巨大な溶鉱炉がそびえている。
黒い煉瓦の塔。島そのものを貫くように立ち上がった巨塔の頂から、絶えず煙が噴き出している。空路船から見えていたあの煙だ。近くで見ると規模が違う。塔の壁面には無数の配管が走り、オレンジ色の光が配管の継ぎ目から漏れている。溶けた金属の光だ。
溶鉱炉を中心に、島は同心円状に広がっていた。最内層は精錬所と大規模な鍛冶工房。ここには一般人は入れない。鍛冶師ギルドに所属する職人だけが出入りを許される聖域だ。中間層は住居と商店。鍛冶師の家族や、金属加工品を売る商人たちが暮らしている。外縁は港と倉庫。他島から運ばれてくる鉱石や燃料が積み上げられていた。
街の至るところから槌を打つ音が聞こえてくる。朝から晩まで、この島は金属を打ち続けている。レグノアが冒険者の街なら、フォルジアは職人の街だ。通りを歩く人々の手は厚く、腕は太い。刻印術式も匠刻の使い手が多いのだろう、工房の看板には術式の紋様が刻まれているものがある。
「鍛冶の島か。なんか落ち着かないな。暑いし、うるさいし」
「嫌いか」
「嫌いじゃない。活気があるのはいいことだ。ただ、マリスティアとは正反対だ。あっちは海と風の島だから」
声にわずかな郷愁が混じった。すぐに消えたが。
通りを歩いていると、鍛冶工房から火花が飛んできた。開け放たれた工房の入口の前を通るたびに、炉の熱気が顔を撫でる。この島の住人は慣れているのだろうが、よそ者には堪える暑さだった。
◇
護衛依頼の報酬を港の出張ギルドで受け取った。銀貨二枚。これでマリスティアまでの乗り換え便と、フォルジアでの滞在費は賄える。
次の空路船は明後日の朝。フォルジアからマリスティアへの南回り便は本数が少ない。喰海の浸食で南方航路の安全が確保しづらくなっているという。港の掲示板に「南方航路、遅延の可能性あり」と注意書きが貼られていた。
時間がある。一日半。
「街を回るか。食料と消耗品の補充がいる」
「あと、あんたのナイフ」
言われて、腰のナイフに手をやった。鞘から抜く。
刃にひびが入っていた。
空賊戦では使っていない。改行を発動しただけだ。だが——金属結合を解除した改行の残滓が、自分の持ち物にも及んだのかもしれない。
法則の歪み。第四夜に考えたことだ。改行の力に近づきすぎた人間は法則の歪みに巻き込まれる。人間だけではない。物にも影響がある。改行の対象は半径三十メートル以内。あの時、ナイフは腰にあった。範囲内だ。
対象を限定したつもりでも、法則の書き換えは周囲に滲む。空賊の剣だけを狙ったはずが、近くにある金属にも影響が及んだ。水に落とした墨のように、法則の歪みは広がる。完全な制御など、できていなかった。
改行の代償。人を遠ざける理由が、目の前の壊れたナイフに刻まれていた。
指で刃を弾いた。澄んだ音がしない。鈍い、割れた音。金属の結晶構造に微細な亀裂が入っている。光に透かすと、刃の中ほどに髪の毛ほどの亀裂が走っているのが見えた。
「……使えないな。次に力を入れたら折れる」
「やっぱり。抜いたとき音が変だった。あんた気づいてなかったのか」
気づいていなかった。船の上では抜く機会がなかった。このナイフは長く使ってきた。特別な品ではないが、手に馴染んでいる。失うのは惜しい。
「鍛冶屋を探すか。修理できるならしたい。この島なら選び放題だろう」
フォルジアの大通りを歩いた。
通りの両側に鍛冶工房が並んでいる。看板には剣や斧の意匠が刻まれ、開け放たれた工房の奥から炉の光が漏れている。槌の音が通りに満ちていた。高い音、低い音、速い音、遅い音。鍛冶師ごとにリズムが違う。ある工房は二人の鍛冶師が交互に打ち、別の工房は一人が黙々と打っている。
店先に完成品を並べている工房もあった。剣、斧、槍、盾。それに農具や調理器具。武器だけでなく、島の生活を支えるあらゆる金属製品がここで作られている。
「どこも似たような店だな。違いが分からない」
「武器鍛冶と道具鍛冶がある。看板に剣が描いてあるのが武器鍛冶だ。あと、炉の音で腕が分かるらしい」
「炉の音?」
「一定のリズムで打てる鍛冶師は腕がいい。途中でリズムが乱れる工房は避けろ。港で聞いた」
「あんた、港で何でも聞いてくるな」
「暇だったからな。お前が船酔いしてる間に」
睨まれた。だが否定はしなかった。
大通りを抜け、中間層の路地に入った。大規模な武器鍛冶の工房は高い。ナイフの修理か買い替えなら、小さな工房で充分だ。
路地の奥。他の工房より一回り小さな建物があった。看板は掲げていない。だが開け放たれた入口の奥から、一定のリズムで槌を打つ音が聞こえてくる。乱れがない。正確で、速い。
「ここは——」
足を止めたとき、槌の音が止まった。
工房の奥から、声がした。
「客? 悪いけど今忙しい。明日来て」
若い声。女の声だった。
「ナイフの修理を頼みたい。急ぎだ」
「ナイフの修理なんて大通りのどこでも——」
声が途切れた。
工房の奥から、一人の少女が顔を出した。
眼鏡。煤で汚れたエプロン。栗色の髪を後ろで無造作に束ねている。手には鍛冶用の小槌。歳はカイと同じか、少し下か。小柄だが、腕には鍛冶師らしい筋がついている。右手の指先に火傷の痕が幾つもあった。
少女の目が、カイの手にあるナイフに止まった。
それまでの不機嫌が消えた。目の色が変わる。眼鏡越しにナイフを凝視している。工房の暗がりから出てきて、一歩。また一歩。引き寄せられるように近づいてくる。
一秒。二秒。三秒。
眼鏡の奥の目が、見開かれた。
「——その刃、法則が歪んでる」
呟くような声だった。だが、その一言に含まれた確信は、この島のどの鍛冶師より重かった。
少女は工房の奥から飛び出してきて、カイの手からナイフを取り上げた。許可も求めずに。刃を光に透かし、指で弾き、耳を近づけて音を聞いている。
「結晶構造が崩れてる。でもこれ、普通の劣化じゃない。外側から力がかかったんじゃなくて、内側から——法則そのものが書き換わった痕跡がある。見て、ここ。結晶の方向がおかしいんです。本来の鉄の格子配列とずれてる」
カイの背筋が、かすかに伸びた。
この少女は——ナイフの損傷から、改行の痕跡を読み取った。
「あたし、セリカ。鍛冶師。このナイフ、直していい? っていうか直させて。こんな面白い素材、初めて見た」
眼鏡の奥の瞳が、炉の火のように輝いていた。
隣でリーネが、ぽかんとした顔をしている。
「……何なんだ、この子」
カイも同じことを思っていた。だが——「法則が歪んでいる」という一言は、この島のどの鍛冶師にも言えないだろう。金属の損傷から改行の痕跡を読み取る目。それは、ただの鍛冶師の目ではない。
面倒な島に来た——と思った。だが、悪い予感ではなかった。




