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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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1話 世界を一行変える男

はじめまして、一条信輝です。

本作「グリモワール・コード」は、空に浮かぶ島々だけの世界を舞台にしたハイファンタジーです。


地上のない空の世界で、法則を書き換える力「改行リライト」を持つ少年カイが、十人の少女たちと出会い、世界の謎に挑みます。


全三百話、毎日更新予定。

最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。

 水晶球が爆発した。


 白い閃光。台座にひびが走り、拳大の水晶球が内側から弾けて砕け散る。破片が床一面にばらまかれ、鑑定士の丸眼鏡が吹き飛んで壁にぶつかった。


「な、なな……!」


 鑑定士は腰を抜かし、眼鏡を失った顔で床に座り込んでいる。


「……悪い」


 砕けた水晶球を見下ろしながら、青年は言った。黒い外套。短い黒髪。どこか眠たそうな目。十七にしては落ち着きすぎた声だった。


「弱めたんだが」


「弱めた……? 弱めてこれか……!」


 鑑定士の叫びが廊下まで響いたらしい。重い足音が近づき、扉が勢いよく開いた。


 だが——それは、もう少し先の話だ。


 ◇


 その朝。


 レグノアの港は賑わっていた。空路船が桟橋に横付けされ、商人が荷を降ろし、冒険者が肩をぶつけ合いながら歩いている。島の縁は断崖で途切れ、その先には雲海。白い雲の海の向こうに大小の島影が浮かんでいる。地上などない。この世界には、空と島と、その間を繋ぐ空路船だけがある。


 カイは港の喧騒を抜け、冒険者ギルドの門をくぐった。


 天井の高い石造りの建物。壁には依頼書が所狭しと貼られ、焼いたパンと革と油の匂いが混ざっている。冒険者の街の匂いだ。


 受付で名を告げ、登録用紙を埋める。名前、カイ。姓はない。受付嬢のペンが一瞬止まったが、すぐに動き出した。冒険者ギルドは事情を詮索しない場所だ。


「では、術式の鑑定を行います。こちらへ」


 鑑定室。部屋の中央に台座があり、その上に水晶球が載っている。


 鑑定士は痩せた中年の男だった。水晶球を布で拭きながら、慣れた口調で言う。


「手を乗せてくれ。戦刻、匠刻、識刻——大抵はどれかに分類される。痛みはない」


 一日に何十人と捌いてきた声だ。カイにとっても、ただの通過儀礼のはずだった。


 水晶球に右手を置く。力を抑える。極限まで。水面に指先だけ触れるように、気配を最小限に絞った。


 それでも——足りなかった。


 閃光。砕ける水晶球。腰を抜かす鑑定士。


 そして——重い足音。


 ◇


 扉をくぐってきた巨漢の腕は、若い冒険者の胴回りほどもあった。


 レグノアのギルドマスター、バルド。現役を退いて十年以上になるが、この街を空賊の襲撃から三度守った男だと港で聞いていた。禿頭に豊かな髭。眼は細いが、奥に刃物のような光がある。


「何事だ」


「ギ、ギルドマスター! こ、この男が……水晶球を……」


 バルドの視線がカイを捉えた。値踏みではない。もっと深い——力の匂いを嗅ぎ分ける獣の眼だった。


 沈黙が落ちる。バルドの眉間に皺が寄り、やがて消えた。


「系統は」


「……読めませんでした。水晶球が耐えられなかった」


「分類不能か」


 バルドが腕を組んだ。壁のような体が鑑定室を狭くする。


「小僧。おれはこのギルドに三十年いるが、水晶球を壊した奴は二人しか知らん。一人は英雄になった。もう一人は——島一つ消した」


 間。


「で、お前はどっちだ」


 カイは真っ直ぐにバルドの目を見た。


「目立ちたくない」


 低く、淡々とした声だった。


「鉄ランクで登録してくれ」


 鉄ランク。最下位だ。バルドの片眉が上がった。


「本気か」


「本気だ」


 バルドは黙ってカイを見つめ、それから大きな手で顔を覆った。溜息。長い溜息だった。


「好きにしろ。だが——何かあったら、おれのところに来い。追い出しはせん」


 その一言は予想になかった。


「……ありがたい」


 分類不能・鉄ランク。レグノア支部の歴史上、おそらく最も奇妙な登録が完了した。


 ◇


 ギルドを出た。


 中央広場。昼前の陽射し。露店の呼び声。焼き串の煙。島の縁に近い北側には柵が巡らされていて、その向こうには何もない。空だけだ。雲海は白く輝いているが、底のほうがわずかに黒ずんでいるのが見えた。


 落ちたら終わり。この世界では、足元の地面は当たり前のものではない。


 石段に腰を下ろす。登録証を取り出した。金属板に刻まれた文字。カイ。鉄ランク。術式の欄は空白のままだ。


 しまおうとしたとき、悲鳴が上がった。


 広場の北側。露店が一つ吹き飛び、木片と果実が宙を舞う。人々が逃げていく。


 その中心に——いた。


 灰色の体躯。四本の脚。二対の赤い目。裂けた口から涎。体長は馬ほどもある。


 岩殻蜥蜴。雲海の下層から気流に乗って上がってくる魔獣だ。全身の外殻は並みの剣では傷一つつかない。鉄ランクなら五人がかりの相手。


 広場は一瞬で混乱に陥っていた。商人が逃げ、露店主が叫び、冒険者たちが武器を取りに走っている。太い尾が石畳を叩くたびに、足元が揺れた。


 柵の近くで、子供が転んだ。


 赤い目が、動かなくなった小さな体を見つける。


 突進。


 石段を降りた。走らない。歩く。魔獣と子供の間に、当たり前のように立つ。


 岩殻蜥蜴が迫ってくる。石畳が砕ける音。涎が飛ぶ。五メートル。三メートル。


 右手を上げた。視線は魔獣ではなく、その向こう——島の縁を見ている。


「——重力、島の縁方向へ反転」


 世界が、一行書き換わった。


 岩殻蜥蜴の巨体が斜め上へ跳ね上がる。四本の脚が空を掻いた。灰色の塊が島の北端に向かって弾き飛ばされ、広場の上空を横切り、屋根を越え、柵を越え、港を越え——


 五秒。改行が切れた。法則が元に戻る。


 だがもう遅い。


 あの巨体はすでに島の外だった。正常に戻った重力に引かれて、雲海へと真っ逆さまに落ちていく。白い雲を突き破り、底の見えない深淵へ。二度と上がっては来ない。


 広場に残ったのは、反転に巻き込まれた砂粒がぱらぱらと降る音だけだった。


 誰も動かない。何が起きたのか分かっていない。


 カイは子供の前にしゃがんだ。膝が擦りむけている。大したことはない。頭をぽんと叩く。


「もう大丈夫だ。母親のところに行け」


 立ち上がる。広場の端へ戻ろうとした。


「おい。待て」


 広場の東側。露店の陰から声がした。


 見ると、剣を抜きかけた姿勢のまま立っている女がいた。魔獣に斬りかかろうとしていたのだろう。その前にすべてが終わった——そんな格好。


 赤い髪が目に入った。燃えるような赤毛を無造作に束ね、使い込まれた革の胸当て、腰に片手剣。背は高い。目つきが鋭い。だがそれ以上に——琥珀色の瞳が印象的だった。驚きで見開かれたまま、カイを真っ直ぐに射抜いている。


「今の——お前、何をした」


「別に。迷い込んだ魔獣を追い払っただけだ」


「追い払っただけ? 岩殻蜥蜴を島の外まで吹っ飛ばしといて?」


「たまたま縁の方角だった」


「嘘つけ!」


 赤毛の女は大股にカイへ詰め寄った。剣を鞘に戻す動作すら荒い。目の前まで来て、顎を上げ、カイの目を覗き込んだ。


「あんた、何者だ。戦刻じゃない。匠刻でも識刻でもない。あんな術式、見たことない」


「ただの鉄ランクだ」


「鉄ランクがあんなことできるか。あたしは斬りかかろうとしてたんだ。踏み込む前に終わった。お前、声しか出してないだろ」


 よく見ている。


 面倒なことになった、とカイは思った。水晶球を砕いた時点で目立ちすぎている。その上、広場で力を使った。だが子供が死ぬのを見過ごせるほど、器用に生きられたためしがない。


「忘れてくれ」


「無理だ」


 即答。間を置かない。この女は嘘が下手だし、諦めるのも下手らしい。


 リーネ——そう名乗った赤毛の女は、腕を組んでカイの前に仁王立ちになった。


「あたしはリーネ。冒険者。パーティは今いない。つまり一人。あんたも一人。話が早いだろ」


「聞いてない」


「今から聞け」


 琥珀の目がまっすぐだった。逸らさない。退かない。


「あんたの力、あたしに見せた。その責任、取ってもらうからな」


 レグノアの空は高い。遠くで空路船の汽笛が鳴った。広場には少しずつ人が戻り始めている。岩殻蜥蜴がいた場所には、砕けた石畳だけが残されていた。


 面倒な女に見つかった。


 カイはそう思った。思いながら、外套のポケットの中で右手を握った。さっき子供の膝を見たとき、一瞬だけ考えたのだ。傷の治癒速度を書き換えようか、と。


 やめた。あの程度の傷で力を使う必要はない。


 必要はなかった。ただ——使いたくなった。


 それが怖い。


 ◇


 その夜。安宿の一室。


 窓辺に腰かけると、レグノアの夜が見えた。魔導灯の青白い光が街路を照らしている。島の縁の向こうには、隣の島の灯りが星のように遠い。


 右手を開いた。何の変哲もない手のひらだ。


 改行リライト——世界の法則を、一行だけ書き換える力。重力、温度、硬度、摩擦、空気密度。半径三十メートル以内。五秒間。それだけが、カイに許された範囲だった。


 それだけで、充分すぎる。


 この力に近づきすぎた人間は、法則の歪みに巻き込まれる。傍にいるだけで世界の記述が軋む。だから人を遠ざけてきた。一人で旅をし、一人で戦い、一人で島を渡ってきた。


 あの赤い髪は、明日も追いかけてくるだろう。近づくな、と言うべきだった。言えなかったのは——


 やめよう。


 窓の外。雲海の底で何かが蠢いた気がした。昼に見た黒ずみ。喰海と呼ばれる黒い霧の気配。気のせいかもしれない。だが世界はゆっくりと、確実に沈んでいる。


 窓を閉めた。


 明日のことは、明日考える。

お読みいただきありがとうございます。

第1話「世界を一行変える男」、いかがでしたでしょうか。


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次話、赤毛の少女がカイを追いかけてきます。

明日もお楽しみに。

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