第八話 呪病の真実(二)
玄関を出てすぐ、旧邸の裏手へと回る。
そして雪月花はどこからともなく煙管を取り出すと慣れた手つきで火をつけた。
「医者の不養生、って思ってる?」
「いえ、そんなことは…」
「いいんだよ。自覚はあるから」
雪月花は唇の端を持ちあげると、細く煙を吐き出した。
「君は呪病について、どこまで知っているのかな?」
「…ほとんど知りません。ただ、呪術師が罹る病であること、不治の病であること――それぐらいしか」
雪月花はゆっくりと息を吐くと、少しだけ遠くを見るように視線を逸らした。
「……そうだな。残念ながら呪病について分かっていることは少ない」
そう前置きすると、再び文緒のほうへと視線を戻した。
「でも僕の知っていることなら、君に教えるよ」
まず、と言って雪月花は右手の指を一本立てる。
「君も見ての通り体力の低下が著しい。目の色素が薄くなってその後はひどく濁っていく。そして、傷の治りが異常に遅くなる」
指が二本、三本…と立てられていくのを見ながら、文緒は空黎の姿を思い出していた。
青白く、透けるような肌。
かつて美しい琥珀色を湛えていた瞳が、今は鈍く濁っている。
「目に見えないところで重大なのは――呪術を司る霊力が著しく損なわれることだ」
その言葉を聞いた瞬間、文緒は小さく息をのんだ。
それは楠上も言っていたことだ。今の空黎には霊力がほとんどない、だから部屋に結界を張っていると。
呪術を司る霊力――それは呪術師として生きるために必要不可欠な力。それが失われるということは、つまり――
雪月花は静かに目を細めた。
「これは呪術師にとっては、死と同義だ」
先ほどまでの軽やかな口調とは打って変わって、強い言葉だった。
文緒は言葉を失ったまま、雪月花を見つめる。
「空黎は『最強の呪術師』と呼ばれた男だからね。でも今は病にかかる以前とはまるで別人のようになった」
「呪術師としての力が失われたから、すべてを拒絶しているんでしょうか?」
震える声で問いかけると、雪月花は一瞬だけ視線を伏せた。
「……確かに最強と呼ばれた頃から鋭かったし、冷徹だと言われることもあったよ。でもそれは呪術師として、つまり対妖や物怪に対してだけだった」
雪月花は一度煙管をトン、と叩く。
「本来の空黎はあんな物言いをする人間じゃない。もっと繊細で……人間らしいやつなんだよ」
ほんのわずかに熱を帯びた雪月花の声。
雪月花の言うことは、文緒にも分かるような気がした。
やっぱりあの姿は空黎の本質じゃない。
「呪病に関してはまだ分かっていないことが多いんだけど……『妖』が関わっていることは間違いない」
文緒は、その言葉に目を見開いた。
「妖が……?」
雪月花が煙を吐きながらゆっくりと頷いた。
「そう。過去の例はそう多くないけれど、呪病を発症した者は強大な妖との接触を経た後に発症している。空黎も例外じゃない」
「……どういうことですか?」
文緒が問い返すと、雪月花は煙管を軽く指先で弄びながら息をついた。
「二年前――空黎は『百面の女』と呼ばれる妖を討伐した」
百面の女――そのことは文緒も知っている。
本條家はその戦いを『記録』として残す立場だったからだ。
「発症したのはその直後だった。過去の例を見ても、呪病は何らかの妖が関与していることは明白だ。ただ、それが何によるものなのかは未だにはっきりしない。呪詛とも瘴気とも違う。何か、別の……より根深いものが絡んでいる」
呪詛でもない。瘴気でもない。
だとすれば何なのだろう。
「……それは、治せないんですよね…?」
雪月花は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ふっと小さく息をつき――
「今のところ、呪病が完治した例はない」
重い響きに、文緒の胸がぎゅっと締めつけられる。
「だが、進行を遅らせたり病状を軽減したりする方法は、ないわけじゃない」
「……本当ですか?」
「まあね。ただその方法も確立されたものではない。空黎のようにここまで進行した例もそう多くないから」
「そうなんですか…?」
雪月花は、少しだけ唇の端を持ち上げると、文緒の瞳を覗き込むように言った。
「呪病はその人間の本質を変えてしまう。単に身体の変化や衰えだけじゃない。霊力を蝕み、心を凍らせる病だ」
文緒はその言葉に息をのむ。
「これまで呪病の症例が少ないのは、並大抵の呪術師では耐えられないからだ。おそらく発症してあっという間に霊力が失われ、次に肉体が衰え、精神が蝕まれる。発狂した者もいれば自殺した者もあるだろう。空黎ほどの霊力の持ち主だから、まだこの程度で踏みとどまっていると言えるかもしれない」
文緒は、雪月花の言葉の意味を噛みしめながら、目を伏せる。
外からは見えないもっと深い部分で、空黎は何かと戦い続けているのだということ。
「……それは、空黎様自身が強いから、ですよね?」
「そうだね、でも万能じゃない。実際に霊力は失われているし、それに、」
雪月花はそこで一度言葉を切った。
文緒は思わず続きを尋ねそうになったが、雪月花はそれを見越していたかのように、軽く指を振った。
「今日はここまで」
「え…っ?」
「君も今日はゆっくり休むといいよ。そしてあまり気負いすぎないこと。あと、空黎がどれだけ君に冷たくあたろうと受け流すことだ」
唐突に言われた言葉に、文緒は驚いて目を瞬いた。
「さっきも言っただろう?あれはあいつの本心じゃない。病がそうさせてる」
雪月花の声音はどこか優しさを帯びていた。
「ありがとうございます、雪月花さん」
「さて、そろそろ僕は行くよ。君も無理せず自分を労わるんだね」
雪月花は診療鞄を持って歩き出すと、ふと足を止めて振り返った。
「君たちは始まったばかりだ。空黎にとっても君にとっても今日はまだ『一日目』なんだからね」
その言葉に、心の奥底にあった迷いがほんの少し晴れていくような気がした。
そうだ、まだ始まったばかり。
だとしたら、これから自分にできることを真剣に考えてみよう。
雪月花の背中を見送りながら、文緒はその想いを強くした。




