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嫁いだのは、余命一年の旦那様でした  作者: 綾瀬アヲ@2月初書籍発売


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第五話 空黎の主治医

 しばらくして、旧邸の静寂を破るように軽やかな足音が廊下から聞こえてきた。冷え冷えとした空気を歯牙にもかけないような、どこか軽快で心地よい気配。


(楠上さんじゃない…?)


 楠上はもう少し足を床に滑らせるように、あまり音を立てずに歩いていた。

 文緒はふと気になって部屋を出ると、廊下を歩いてきたのは白衣をまとった長髪の男性だった。


 すらりとした体躯に、ゆったりとした動き。

 肩まで伸びた黒髪が歩くたびに、さらりと揺れる。


「おっと、これは失礼」


 彼は足を止めると穏やかな笑みを浮かべた。


「いいえっ、こちらこそ急に飛び出してすみません」


 文緒はすぐに頭を下げる。

 彼はふっと微笑むと、じっと文緒を見つめた。


「もしかして君が空黎の花嫁殿かな?」


 花嫁殿。第三者からそう呼ばれて、改めて自分の立場を思い出す。

 それと同時に、ああもきっぱりと『婚姻は結ばない』と言われてしまったあとでは、はいそうですというのも気が引けて曖昧に濁すしかなかった。


「初めまして、本條文緒と申します」


 文緒は慌てて丁寧に名乗ると、白衣の男性は柔らかく笑った。


「文緒ちゃんね。うん、どうぞよろしく」


 飄々とした気さくな雰囲気につられて文緒も微笑み返す。


「僕の名前は刹那せつな雪月花せつか。せつか、でいいよ。あまり堅苦しく呼ばれるのは好きじゃないからね」


 文緒は先ほど空黎が激しく咳き込んだ時の、楠上の言葉を思い出した。

『刹那様を呼んで参ります』――あれはこの人のことだったのだと。


「へぇ、でもそうか。こんな可愛い花嫁殿が来てくれたのなら少しは安心かな」


 雪月花の軽い口調に少しだけ緊張が和らいだものの、本気なのか冗談なのか分からず何と返していいのか思案してしまう。


 刹那雪月花――三大呪術家の一つ、刹那家の長男。

 呪術医療の名門として知られる刹那家は、古くから妖や呪詛による病を研究し、治療の技術を受け継いできた家系だ。


 そしてこの雪月花もまた、帝都で随一の呪術医と名高い。

 けれど、いま文緒の前にいる本人は由緒ある家系の生まれであることを感じさせないほど人当たりが良く、それでいてどこか掴みどころがなかった。


「空黎、また発作が出たんだって?」


 雪月花の言葉に、文緒はすぐに頷いた。


「はい、そうなんです。すごく激しく咳き込んでいて……」

「なるほどな」


 彼は顎に指を添え、何かを思案するように視線を落とす。


「ちょうどこれから往診に行くところなんだ。様子を見てくるよ」

「あの…っ、私も一緒に行ってもいいでしょうか?」


 さっきは『下がれ』と言われて部屋を出てきてしまったけれど、こうしてずっと部屋にいても考えるのは空黎のことばかりで気が休まることはない。

 そして何よりも、空黎の容態が一番気がかりだった。雪月花は主治医で病のことを一番よく知っている。彼の診察を見たら何か分かることがあるかもしれないと、そう思った。


「一緒に来てどうするの?」


(……え、)


 足を止めた雪月花は微笑みながらも、目の奥は笑っていなかった。


「来たところで君にできることは何もないよ」

「……それは、そうかもしれません。でも空黎様の容態を知りたいんです。まだ私には分からないことばかりで、私にいったい何ができるかも……」

「それなら、そばにいるだけでいいんじゃないのかな」


 雪月花はかすかに眉を上げて、文緒の言葉を遮った。


「余命一年の男と政略結婚をするんだろう?君に課せられた役目はただ傍観することだ。いずれ終わる運命なんだから」


 どこまでも軽やかな声音の中に明確な冷たい響きがあった。


(どうしてそんなことを……?)


 その言葉を聞いた瞬間、文緒の心臓が締めつけられた。


 確かに、それがこの婚姻の現実だった。

 たった一年――いや、もしかしたらそれよりも短いかもしれない。俯きそうになる気持ちを立て直すように前を向く。


「……私にとっては、終わるかどうかではなくて今が大切なんです」


 未来がどうなるかなんて、誰にも分からない。

 でも彼が今ここにいてそばにいると決めた。それなら、自分はできることをしたい。


「だから、何もしないでただ見ているだけなんてしたくないんです」


 雪月花はじっと彼女を見つめた。

 その顔には、わずかな驚きと――どこか楽しげな色が浮かんでいる。


 そして、ふっと肩をすくめた。


「……ふふ、なるほどねぇ」

「あの……?」

「空黎とは長い付き合いだからね。その花嫁殿となればどんな人なのかって気になってたんだけど」


 雪月花はくすりと喉奥で笑いながら、文緒の顔をじっと覗き込んだ。


「君は思った以上に面白い子みたいだね」


 その言葉に思わず目を瞬かせた。

 さっきまでの張り詰めた雰囲気は霧散して、文緒はようやく肩の力が抜ける。


(もしかして、試された……?)


 けれどそれを雪月花に直接確かめる勇気は、この時の文緒にはまだなかった。


「いいよ、一緒においで」

「ありがとうございます…!」


 文緒が迷いながらも小さく頷くと、どこか満足そうに目を細める。

 その微笑みは、先ほどよりも温かみが増したように見えた。


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