結
◇◇◇◇
それから、季節は移ろった。
冬の厳しい寒気は過ぎ去り、春の彼岸を迎えた時節。
空黎は三年ぶりに祭祀の場に姿を現し、儀を執りおこなった。
自らの足で立ち、琥珀色の瞳を宿し、確かな霊力を纏う空黎を見た誰もが――その存在を認めざるを得なかった。
復活した最強呪術師、綾羅城空黎。
その存在を中心に呪術界の均衡が揺らいでいく。そして、もう一人―――
「見てください、満開ですよ…!」
綾羅城家の旧邸の庭には、弾む文緒の声と仄かな香りが風にのって漂っていた。枝先にほころぶ白梅は雪の名残のように清らかで鮮やかに咲き誇っている。
「大丈夫ですか?お疲れなのでは?」
「少しな、祭祀の前後はどうしても立て込むから」
春の彼岸の祭祀を終えた今も、御所への報告や会合と空黎の周囲は慌ただしい日々が続いていた。
今日は久方ぶりに一日予定もなく、こうして穏やかな時を過ごせている。
「……やはり、霊力は完全には戻りきらないのですね」
「そうだな。全盛には及ばないし疲労も溜まりやすい。せいぜい六割か七割といったところか。それでも十分すぎるほどだ」
元凶である百面の女を倒したあとでも、雪月花の診察では、まだ呪病の根幹は空黎の中に根を張ったままという見立てだった。
「たとえこのままだとしても構わない。今ある力で、できることをやるだけだ」
淡々と告げる声に、悲壮感はなかった。
死を運命づけられていた空黎が、前向きに生きることを選んでいる。
「それに、こうして君との約束も果たせたしな」
空黎の言葉と微笑みに、文緒は胸の奥がじんと熱くなり瞳を潤ませた。
――この梅の木が満開になるところを一緒に見たいです。
あの時の約束をこうして実現できている。
その事実が何よりも尊く、文緒の心を満たした。
「……はい。こうしてご一緒できて、本当に嬉しいです」
呪病に蝕まれ、死を覚悟していたあの頃の影はない。
月華と月天の光に癒された体はまだ完全ではないにせよ、確かに命は繋がり、歩みを重ねているのだから。
空黎が、文緒の隣りに並び立つと梅の花を見上げた。
その横顔を見つめながら、それでも――と、文緒は思わずにいられない。
(……それでも、私はあなたを救いたい)
あの戦いのあとからずっと、胸の奥に眠っている想い。
文緒は胸元に忍ばせたペンダントにそっと手を当てる。
銀の枠に嵌められた石には二つの赤い三日月の文様が、月天術の「月華」と「月天」を表すように刻まれている。
実の父・蒼月直貴によって封じられていた、文緒の中に眠る力が呼び覚まされた証。
けれど、まだ終わりではない。
実の父・蒼月直貴が残した手帳には、第三の術の名が記されていた。
輝夜――輝夜は奇跡の矛 ただし魂の代償を以て成る。
それが、呪病を治す鍵になるのではないか。
文緒の胸には、確信に近い直感が芽吹いていた。
けれど、この想いを誰かに告げるつもりはなかった。
もしあの記述が真実ならば、空黎はきっと是としないであろうから。
「どうした?」
不思議そうに見つめる空黎に、文緒は「何でもありません」小さく首を振った。
このことはまだ、胸の奥に秘めたままにしておくつもりだ。
「……君のほうこそ、大丈夫なのか」
しばし沈黙した空黎が、やがて問いを変えた。
百面の女との戦いを経て、文緒が蒼月直貴の実の娘であること、その身には霊力が備わっていることは周囲も知るところとなっていた。
未だ蒼月家からの接触はない。
だが、それは時間の問題だと空黎は見ている。
「呪術界は君を放ってはおかない。利用しようとする者も必ず現れるだろう」
「私は大丈夫です。空黎様の隣に立つ覚悟がありますから」
その憂いを帯びた眼差しに、文緒は背筋を伸ばして強く答えた。彼と並び立つのならば、乗り越えなければならないことだと分かっている。
空黎は目を細めて、小さく吐息をもらした。
「……君は本当に、強いな」
そして文緒と向かい合うと、その手を両の手のひらで包み込む。
「ならば、俺も誓おう」
低く囁かれる声に、文緒の胸が強く脈打つ。
視線が重なった瞬間、空黎の瞳に迷いはなかった。
「俺も守り抜く。これからも君と共に歩むために」
彼が差し伸べたのは庇護ではなく、隣り合うことを望む手。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥に積もっていた孤独や不安が、春の雪のように静かに解けていく。
「改めて――俺と、婚姻を結んでほしい」
文緒の視界が揺れる。
幾度も拒まれたその言葉を、彼の口から聞くことができたのだから。
頬を伝う涙は止めようもなく、それでも文緒はその手をぎゅっと握り返した。
「……はい」
空黎はそっと文緒の涙を拭い、その指先を離さぬまま柔らかく笑んだ。
胸の奥にじんと広がる幸福感。言葉は少なくても、視線を交わすだけで互いの思いは伝わっていた。
寄り添う温もりが、春の陽射しよりも鮮やかに文緒の心を照らしていく。
「空黎様」
「なんだ?」
「今日の八つ時は、何をいただきましょうか?」
少し間を置いてからの問いに、空黎が目を瞬かせる。
「今考えていることがそれか?」
「はい。私たちにとっては大切なことですから」
微笑む文緒に、空黎は小さく息をついた。
「昨日は義姉君から贈られた舶来菓子だったな」
「美味しかったですよね。そうですね…おはぎにでもしましょうか?」
「ああ、いいな。君の作るおはぎは美味い」
庭には白梅の花びらが舞い落ちる。
そのひとひらひとひらが、二人の新たな始まりを祝福するようだった。




