第五十話 最終決戦
再び霊獣の咆哮が轟いた瞬間、蔵の中の空気が一変した。
白銀の毛並みが逆巻くように揺れ、四肢が踏み込むごとに床を覆う術式が光を増す。角からは蒼白の光がほとばしり、まるで天から降り注ぐ星々を束ねてきたかのようだった。
神獣の全身を覆う白銀の毛並みの中に、数多の眼が浮かび上がった。
頭部だけでなく、肩にも、胸にも、尾に至るまで――無数の瞳が光を宿し、瞬きもせず百面の女を見据える。
その視線は、ただの威嚇ではなかった。過去と現在、心の奥底と貌の裏側――存在のすべてを射貫くような光。
目を合わせたが最後、隠し通してきたものまでも暴かれる、そんな畏怖を孕んでいた。
百面の女の貌が、ざわり、と崩れる。
浮かべようとした嘲笑が歪み、次の貌に変わるよりも早く、また別の瞳に捕らえられる。逃げ場はない。
「やめろ……やめろぉっ!」
幾千幾万と繰り返してきた嗤いの貌が、ことごとく光に晒され、砕け落ちる。その度に、仮面の奥に潜む真の貌が暴かれていくかのようだった。
霊獣の無数の眼が妖を射貫くたび、百面の女の身体から黒い瘴気が弾け飛ぶ。これまで人々の心を侵し、精神を崩壊させてきた力が、今は逆に自身を蝕んでいる。
「私の中を見るなっ……! 私の貌を――覗くなァ!」
飛びかかろうとする百面の女へと、白澤が一歩踏み込む。
その爪が、妖の体を無残にも引き裂いた。
裂かれた部分から瘴気は霧散し、まるで存在そのものが掻き消されていく。
文緒はその光景を見つめながら、胸の奥を強く震わせていた。
空黎が握るその手は熱を帯び、確かな霊力が彼を通して流れ込んでくるのを感じる。
彼と自分と、そして霊獣。
三つの力がひとつに結ばれ、この場を支配しているのだと直感した。
百面の女の嗤いが、やがて悲鳴へと変わった。
「……なぜ…っ、なぜ人間がここまで――」
その貌は次々と変わるが、すべての奥に同じ色が浮かぶ――恐怖と畏怖だ。
神獣は空へ向けて首をもたげた。
その咆哮は祝詞のように厳かであり、同時に天地を震わせる破壊の音律でもあった。
蔵の梁がきしみ、石壁が鳴動する。
それでも『月天』が守護した結界は揺るがない。文緒の月天術が神獣の力を支え、空黎の術がそれを束ねていた。
空黎は目を閉じ、最後の印を結ぶ。
「――天と地を結び、陰陽を調え、乱れし貌を永劫に鎮めよ」
その声に応えるかのように、神獣の角がさらに光を増した。
白銀の奔流が集まり、一本の矛となって百面の女を向かっていく。
「嫌……!私は、まだ……!」
断末魔の中、幾千の貌が砕け散り光に呑み込まれていく。
霊獣の咆哮とともに奔流の光が奔り、百面の女の貌は断末魔と共に粉砕された。
闇を覆っていた妖気が消え、蔵の中には白銀の残光だけが漂う。
そして訪れた静寂。
ただそれだけが、場を支配していた。
◇◇◇◇
その後―――
百面の女との戦いを終えたのち、本條家は記録係としての役割を担った。
霊力を持たぬ代わりに、事実を書き残し後世へ伝えることが本條家の務めである。また、娘の文緒が戦いの渦中に身を投じていたことにより、当主・本條寛明の手によって克明に記された。
やがて「帝都を覆った闇の一夜」として、帝都の呪術史に残ることとなる。
二年前に封じたはずの百面の女が復活を果たした。
それを今度は霊獣を顕現させ退けたのが、余命わずかと噂されていた綾羅城空黎であるという事実。
噂は瞬く間に呪術界を駆け巡り、困惑と驚愕はさざめきのように広がった。
「綾羅城家の嫡子は再び甦った」――そう口にする者もいれば「そうとはいえ、やはり長くはもたぬだろう」と囁く者もいた。
いずれにせよ、その波紋は大きくなり呪術界の波乱の一つとなることを、誰もが予感したのだった。
文緒は旧邸の自室で、文机の引き出しを開ける。
そこには、以前楠上から渡されそのままにしていた封書があった。
――本條家当主の寛明様から私に託されたものです。もし文緒様がその名に辿り着いたときは、迷わず渡すようにと。
開けられないままだったそれを手に取ると、文緒はようやくその封を切った。
最初の一文を読んだ瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
『この手紙を読む時が来たということは、もう大きな選択を経ているのだろう』
文字を追う指先がわずかに震えながらも、続く行に目を落とす。
そこには、文緒の実父が蒼月直貴であること、そしてそれを伏せるのが直貴自身の願いであり、引き取る上での取り決めでもあったことが記されていた。
蒼月直貴が文緒の出生を秘匿することを望んでいたのは、楠上から聞かされていた。
けれど、この手紙に記された実父と養父――それぞれの「苦悩」と「願い」を知ったことで、胸の奥に言いようのない切なさと温もりが溶け合うように広がった。
ただ秘めていたのではないと、言葉の端々から伝わってくる。
すべては文緒を守るために。
寛明もまた苦悩を抱えながら、それでも自分を守り続けてくれていたのだと、ようやく理解することができた。
『血の縁に関わらずいつまでも本條の娘だ。泣き、笑い、成長してきた日々こそが、その証だから』
目頭が熱くなり、文字が滲む。便箋を握る手に、幼いころから注がれてきた眼差しや、優しく背を押してくれたぬくもりが蘇ってくる。
最後に記されていたのは、短くも温かな言葉だった。
『どんな道を選んでもいい。ここにはいつでも文緒の居場所がある』
文緒はゆっくりと息をつき、手紙を胸に抱きしめた。
閉じた瞼の裏には寛明と菜穂子、兄の義之――皆の穏やかな笑顔が浮かぶ。その愛情に育まれてきた日々が、胸いっぱいに溢れて止まらなかった。
――自分は間違いなく、本條家の娘だった。
そしてこれからも、そうであり続けるのだと。




