第四十八話 偽りなき願い
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空黎の腕の中へと崩れ落ちた体は、あまりにも力無く頼りなかった。
文緒の頬は血の気を失い、唇はかすかに震えているのに瞳は固く閉じられたまま。その姿が、嫌でも二年前の記憶が重なる。
百面の女の放つ妖気を前に、次々に倒れていった呪術師たち。
やがて開いた瞳は濁り、苦悶に呻き、錯乱した。自らの心が壊されるか他者を滅ぼすか――混沌とした光景がありありと思い出される。百面の女を封じてもなお、二度と元には戻らなかった者もいた。
「……文緒」
文緒の細い肩を抱き、耳元に縋るように言葉を落とす。
「……隣りに立ちたいと、言っただろう」
呼びかけは自然に零れた。
震えを抑えようとする声が、周囲に溶けていく。
「来年、庭の梅の花を共に見ると……そう言ったのは、君じゃなかったか」
勝手なものだと自嘲する。
どちらの言葉も拒絶したのは自分のほうだというのに、今は文緒が自分に向けてくれた、その無垢な願いに縋りたかった。
「戻るはずがないわ。目を覚ましても錯乱して元の娘とは変わっている……その次は、あなたの番よ」
耳を貸せば、取り込まれる。
分かってはいても引きずられそうになる思考――だが、空黎の指先は強く文緒の手を握り返した。
あの嵐の夜の記憶がよみがえる。死の淵に沈みかけた自分の手を、文緒は泣きながら握ってくれた。その温もりは、確かに自分を現世へと繋ぎとめてくれたのだ。
あの時、彼女が捧げてくれた祈りはなんだったのだろうか。
もし、いま自分が祈るとしたら。
《《それ》》は、胸の奥から自然に溢れ出した。
果たして自分に資格があるだろうか。
呪病に蝕まれ、死を覚悟した身にはあまりにも似つかわしくなく、分不相応な願い。
――ずっと君に言ってきただろう?誰かを近くに置くことをそんなに恐れることはないと。
いつかの雪月花の言葉。
本当にそうだろうか。
けれど、もし文緒も同じように願ってくれるのなら。
「俺は、君と共に生きたい」
それが、偽りなき心からの願い。
その瞬間――着物の袂に入れていた文緒のペンダントが、淡い光を帯び始めた。
(まさか………)
文緒の持つ霊力と月天術を制御するために、空黎自身が仮封を施した。しかし、銀の枠に嵌められた石はそれを破ったかのように明滅をはじめた。
あの嵐の夜に見たのと同じ光――否、それ以上に強く烈しい。
光は膨張し、やがて蔵の中すべてを白銀に照らした。柔らかな輝きが渦を描き、文緒の内側から溢れるようにして広がっていく。
そして、文緒の閉ざされていたまぶたの奥に、確かな意志が芽吹いていくのを空黎は直感した。
空黎の全身を蝕んでいた痛みが和らいでいく。体の中で焼けつくように疼いていた傷も、息苦しさも、すべて浄化されていくかのように。
それは、嵐の夜、空黎が瀕死の淵で文緒の祈りによって光を得た、あの夜の光景が重なった。
「なんなの…!?これはいったい――っ!」
周囲を覆っていた百面の女の妖気は、一瞬に霧散した。
そして、結界の術式が月天術の守護に肩代わりされ、奪われ続けていた霊力がゆっくりと己の内へ戻ってくるのを、空黎は確かに感じ取った。
(……これが、月天術か……?)
月華の光が舞い散り、月天の盾が重なり合う。
やがて光そのものが盾となり、覆いかぶさる闇を打ち消すかのように、堅牢な輝きが顕現した。
「……文緒」
震える声で再び名を呼んだ。
すると、閉じられていたまぶたがわずかに震える。まるで夢の奥から導かれるように、長い睫毛がふるえ、ゆっくりと瞳が開かれた。
そこには、確かに生の光が戻っていた。
澄んだその瞳が自分を映した瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げ、思わず喉が詰まる。
「……空黎様……?」
掠れた声。だが、紛れもなく彼女自身の声だった。
込み上げる安堵に、空黎はたまらずその肩を抱き寄せた。
「……よかった。本当に……」
言葉にならない吐息が震える。
その腕の中で、文緒は弱々しくも微笑んだ。
光を纏い、文緒はこちらへ還ってきた。
空黎の手中にある石の中心には、《《二つ目》》の赤い三日月の文様が浮かび上がっていた。




