第四十七話 胡蝶の夢(二)
「……く、空黎様……」
文緒が震える唇でその名を呼ぶ。けれど、その眼差しは知っている彼のものとは違っていた。
その瞳は鈍色に淀み、深い淵のように温度を欠いている――そう、まるであの旧邸で初めて顔を合わせた時のように。
「こんなところで何をしている?」
これは幻だ。
直貴の後に空黎が現れるなんて、あるはずがない。そう自分に言い聞かせても、彼の存在はあまりにも現実だった。
「言っただろう。俺はお前と婚姻を結ぶつもりはない」
淡々と、感情を一切持たずに言い放つ声。
同じことを、今日も言われた。文緒の全身から血の気が引いていく。
「私は…、ただ、少しでもお役に立ちたくて、」
「それならばなぜ俺に縋ってばかりいる?役立たずのくせに、ただ守られるだけのお前に、いったい何ができる?俺の隣りに立てるわけがないだろう」
空黎の口から紡がれる、あまりにも冷酷な言葉。
胸が千切れるように痛むのに、文緒の体は凍りついたように動かない。
「それでも……お傍に、いたいです……」
気がつくと、涙が頬を伝っていた。
この胸の痛みがなんなのか、文緒ははっきりと自覚した。
綾羅城家に嫁いでくる前から。
三年前、あの祭祀の日に出会ったときからずっと――
「私は、空黎様のことをお慕いしています」
そう告げた文緒を見て、空黎の顔に貼りついていた冷たい表情が消え去った。
空黎は、一歩また一歩と文緒に近づいてくる。先ほどまでの人を寄せつけない冷たい空気が嘘のように、その表情は柔らかく、穏やかな光を宿していた。
「そんなに泣かないでくれ。お前を悲しませるつもりはなかったんだ」
空黎は優しく文緒の頬に手を添えた。
その指先は温かく、文緒の涙をそっと拭う。
「俺を慕っている――そう言ったな?」
「……はい」
「ならば今ここで、お前の霊力をすべて俺に捧げろ」
霊力を持つ者にとって、それは心身と結びついている。
そのすべてを捧げることは、死を意味する。
「そうすれば俺は苦しみから解放され、お前の霊力は俺の中で永遠に生き続ける。本当に俺を慕っているというのなら、できるだろう?」
その言葉は、甘く囁く毒のように文緒の耳に響いた。
(それなら……それでも、いい……)
空黎の役に立ちたい。
それが、文緒が何よりも望んだことだった。
もし、この体が空黎の命となるのなら喜んで捧げたい。
この場で霊力を差し出して彼が回復するのなら、これ以上の幸せはないように思えた。
文緒はゆっくりと手を伸ばす。
一筋の涙を頬に伝わせながら、文緒は微笑んだ。
その指先が、空黎の頬に触れようとした瞬間。
――俺の隣りに立つんじゃなかったのか?
不意に、どこからか胸の奥を震わせる声が響いた。
目の前にいる幻影の空黎からではない。
確かな温度を持った、自分が知る声。
――来年、梅の花を共に見ようと言ったのは君だろう。
その言葉に、文緒の胸が熱くなる。
視界を覆っていた煙るような靄が、少しずつひび割れていくようだった。
(……そうだった)
空黎の屋敷で過ごした日々が思い出される。
呪病を抱え孤独に耐える彼の姿――文緒を拒絶しながらも、その下に隠されていたのは文緒の行く末を案じる優しさだったこと。
食事に箸をつけてくれるようになり、ともに八つ時を過ごした穏やかな時間。時折、ほんの一瞬だけ見せてくれる眼差しが、何よりも温かかった。
彼の隣りにいたいと願ったのは、守られたいからではない。
その背中を、自分の手で支えたいと願うようになったからだ。
(……私は、空黎様の傍にいたい)
ただ、それだけでよかった。
苦しむ彼を、ほんの少しでも支えることができたらいい。
それ以上は何も望まない。
空黎から愛されたいなどと、欲張るつもりはなかった。
(そうだ。私は……空黎様と、生きていきたいんだ)
自分の中から、はっきりとした想いが溢れ出す。
すると、まるで水面に投げ込まれた石が波紋を広げるように、目の前の空黎の姿が別の輪郭へと変わり始めた。
「え……?」
思わず漏れた声に、目の前の像は静かに微笑んだ。
「この時が来たのだな」
それは、蒼月直貴の面影だった。
文緒の胸の奥で、何かがかすかに震えた。
先ほどの、仮面のような無機質な幻影ではない――ずっと、待ち望んでいた存在だと本能が告げている。
「お前が誰かを心から愛し、そして愛される時が――それが、力の目覚めを意味する」
直貴がゆるやかに手を差し伸べると、その手のひらから月光を思わせる淡い光が発現していた。
「……お父さま……?」
口が自然に動いていた。
幻影は肯定も否定もせず、ただ優しく笑む。
次の瞬間――世界が砕けた。
目の前の光景が音を立てるように割れる。
亀裂から溢れ出すのは、闇ではなくまばゆい光。
砕け散る破片が星屑のように宙に舞い、文緒の全身を包み込んでいく。
胸の奥から、熱が奔る。
ずっと奥底で眠っていたものが、ついに呼吸を始めたような感覚だった。
結んだ両の掌から淡い光があふれ、脈打つように強く、そして清らかに広がっていく。
「――あ……」
光は揺れながら形を成し、まるで花びらが舞うように蔵の闇を押し退ける。その輝きの奥で、さらに大きな力が目を覚まそうとしていた。
――月華は浄化の光。
痛苦を鎮め陰翳を散らす。
――月天は守護の盾。
愛する者を護り闇を祓う。
文緒の全身を満たすその力は、もはや押しとどめることはできなかった。
世界を覆っていた闇は、一面の光に呑まれていく。
偽りの世界は崩れ、砕け、消え失せて。
残ったのは静謐な輝きと、胸の奥に刻まれた確かな想い。
その瞬間、瞼がふっと開かれた。
「―――文緒……!」
見上げた視界に映ったのは、幻影でも、幻惑でもない。
こちらを呼び続けていた――本物の、空黎だった。




