第四十六話 胡蝶の夢(一)
◇◇◇◇
庇うように半歩前に出た空黎の肩が、震えている。
さっき放たれた妖気を無詠唱で打ち消した反動――喉の奥に滲む鉄錆の匂いまで、ここから伝わってくる気がした。それでも彼は振り返らない。確かに文緒を守っている。
その背中が、胸を締めつけるほどに苦しかった。
身を削るように響く激しい咳の音を、文緒は耳にしてしまう。
いくら文緒の月天術の力で回復したといっても、未だ呪病に蝕まれた身体であることに変わりはない。
加えて無詠唱で妖気を散滅させるなど――それがどれほど苛烈なものか、空黎から呪術について教えられたからこそ分かる。
(どうして――こんな状態で、私を……)
喉の奥が熱くなり、涙が零れそうになる。
この妖に、空黎が倒される――空黎を失うかもしれないことが恐ろしくて、どうしようもない。
それなのに何もできない。背後にいるだけで足はすくみ、声も出せない。
なんて情けないんだろう。
早く空黎の隣りに立ちたいなんて、とんだ思い上がりだった。
(ごめんなさい………)
自分は無力だ。
二年前の戦いで暗夜が味わったという悔しさが、今なら少し分かる。自分はただ守られているだけだ。何もできないまま、誰かの背中に隠れている。
その時、耳の奥で忍び笑いが響いた。
艶やかで、温度のない声。
「あぁ……そういう貌はとても好きよ。無力な自分に絶望して嘆く人間の貌は、いつだって美しいもの」
足元が、まるで水面みたいに揺れる。
視界の輪郭がするりとほどけ、音が遠のいた。
――そして、世界が切り替わる。
文緒は、はっと顔を上げた。
気がつくと、まだ蔵の中だった。
けれど先ほどまで自分を庇っていてくれた空黎も、対峙する百面の女も、倒れた暗夜の姿もない。
蔵の中の気配が、すべて消えている。
音も、匂いも、光さえも。
足元を覆うのは白く霞んだ靄。
まるで世界そのものが切り離され、どこか別の場所に放り込まれたかのようだった。
心細さに胸がざわつく。
闇よりも不安なのは、独りにされること。自分だけが取り残されているような、耐えがたい孤独が押し寄せてくる。
「文緒」
そのとき、靄の向こうに影が差した。
静かに歩み寄ってくるその男の姿に、文緒は目を見張る。
面差しは見知らぬものであったのに、どこか血が騒ぐような懐かしさが込み上げてきた。
父、蒼月直貴―――
その名前に、文緒の胸は一気に波立った。
一度もその姿を記憶に残すこともないまま死に別れた、実の父。
決して会うことの叶わない存在。
「……お父……さま……?」
思わず口元が震え、涙が込み上げる。
夢か幻かも分からない。けれど、この瞬間だけは信じてしまいたかった。胸の奥に押し込めてきた願いが、堰を切ったように溢れ出す。
縋るように駆け寄ると、直貴は柔らかに微笑んだ。
「文緒、元気だったか。ずいぶん大きくなったな」
直貴は柔らかな声で語りかける。その声は、文緒の記憶にはないはずなのに、ずっと心の奥底で探し求めていた温かさに満ちている。
「お父様…お会いしたかった…っ、」
涙で潤んだ瞳でその顔を見上げると、直貴は優しく微笑んで文緒の頭を撫でた。
「どうした、そんなに泣いて。赤子の頃と同じだな」
優しく諭すような声に文緒は身を委ねる。
触れた手や体からは温もりが伝わって、本当に父に再会できたのだという喜びがあふれた。
「お父様、聞きたいことがあるんです。あの……私の本当のお母様は、どうしているのですか?」
震える声で尋ねた。
どうして呪病を抱えた直貴が、赤子の自分を連れて戻ったのか。
母やどんな人だったのか。今、どこにいるのか。
母は、自分を愛してくれていたのか――聞きたかったのは、それだけだった。
「お前の母は……」
直貴は微笑みを深め、文緒を見つめる。
その温かい眼差しに、文緒の胸は期待で膨らんだ。
「誰よりも、お前を疎んでいた」
直貴の唇から紡がれた言葉は、あまりにも冷たく、そして残酷だった。
文緒は耳を疑い、硬直した。
直貴は依然として優しい微笑みを浮かべている。
「お前を宿したせいで家の恥だと謗られ、自由を奪われた……絶望していたよ。だからお前の母は、お前を一度たりとも愛してはいなかった」
その微笑みは貼りつけた仮面のように無機質で、感情がなかった。
胸に突き刺さるような痛みに、文緒は思わず顔を覆う。
「違う、そんなことは嘘……!」
悲痛な叫びを上げて後ずさる文緒の姿を、直貴は哀れむように見つめたまま。
そして、その柔和な貌が、まるで古い仮面のようにひび割れ、ぽろぽろと剥がれ落ちていく。
「――文緒」
その下から現れたのは――空黎の貌。




