第四十五話 和解と破壊
「随分な大口だな、兄上」
暗夜の声だった。影の中で双子の弟が唇を歪めている。
「そんな身体でよく言える……いつまでも自分が特別だとでも思っているのか?」
暗夜は一瞬唇を噛み、それから歪んだ笑みを浮かべた。
緊張に満ちた空気を切り裂くように、艶やかな笑声が闇から降り注ぐ。
「ふふ……やはり双子ね」
百面の女が滑るように前へ進み出た。幾度も貌を揺らめかせ、最後に艶めいた笑みで形を定める。
「空黎があってこその暗夜。あなたたちは互いを照らす鏡――兄が光を浴びるたび、あなたの貌には濃く影が差していく」
言葉は甘やかでいて残酷だった。
暗夜の肩に爪を立てるようにそっと手を置き、囁く。
その声音が、暗夜の胸奥に深く抉り込んでいくのを空黎は悟った。心を抉り、引きずり込む。それが百面の女の戦い方だ。
「……暗夜、その妖に隙を見せるな。心を見抜かれれば取り込まれるぞ」
それは純然たる忠告であり、兄としての懸念だった。けれど暗夜の瞳に宿ったのは、理解や感謝ではなく暗い炎。
「兄上はいつだってそうだ。俺が弱いから、守ってやらなきゃ潰れると思ってる!」
その声音に、百面の女が艶然と笑みを深めた。
「どれだけ努力しても、兄上は常に先を行く!皆はお前を称え、俺には誰も目を向けない。二年前だってそうだ…!」
脳裏に焼きつくのは二年前の戦場。
無数の貌が仲間を狂わせ、次々に呪術師たちが錯乱して倒れていった。自分は立ち尽くし、ただ兄の背に縋るように震えることしかできなかった。
やがて戦いが終わり、深手を負いながらも封印を果たした空黎の名は称賛に包まれた――綾羅城の若き長子が、百面の女を封じたと。
自分には誰も見向きもしなかった。
唯一、父だけが、無傷で帰還した暗夜を見て言い放った。
――お前は何をしていたんだ、仮にも綾羅城家の呪術師だろうに、恥を知れ。
胸を抉るようなその声を、はっきりと思い出せる。
空黎がいる限り、自分は永遠に最強呪術師の弟という枷から逃れられない。
「……暗夜」
二年前の戦いのことを、暗夜が引きずっていたとは思いもしなかった。
いや――自分も呪病に蝕まれてからというもの、他人の心に気を配る余裕などなかった。人を顧みる心を失っていた自分は、弟の苦悩に目を背けてきたのかもしれない。
「暗夜、お前は影などではない」
空黎の声は低く、けれど揺るぎなかった。
「あの時俺が最後まで戦えたのは――お前がそばに立ち続けてくれたからだ」
「……な、何を……」
暗夜の目が大きく揺れる。
「他の呪術師が次々と倒れていく中で――俺は、お前だけは守らねばと思った。だから倒れるわけにはいかなかった」
暗夜の瞳に浮かんだのは怒りではなく、戸惑い。
長年胸に積もらせてきた怨嗟が、初めて揺らいだ。
思い返せば、戦いのあと父に「何をしていた」と責められた暗夜を自分が庇ったことで、なおさら「無力な弟」という烙印を押してしまったのかもしれない。
空黎の胸に、鈍い後悔が広がっていく。
「……最後まで立ち続けられたのは、そばにいたお前が支えだったからだ」
蔵の闇の中で、暗夜の拳が震える。
動揺に揺らぐ瞳。
暗夜の胸に幾重にも絡みついていた鎖が、わずかに解けかけていく。
「兄上……俺は、ずっと……」
暗夜の喉から、かすれた声が漏れた。
長年言えなかった本音が、今にもこぼれ落ちそうになった。
その刹那――。
「退屈だわ」
艶やかな声が空気を断ち切った。
百面の女がふっと笑みを深め、愉快そうに嗤いながら暗夜の琥珀色の瞳を覗き込む。
「どの貌を覗いても、羨望と嫉妬と自己憐憫ばかり……本当につまらない」
白い指先が暗夜の頬を撫でると、暗夜の身体がびくりと硬直した。
虚を突かれたように目が見開かれ、血の気が引いていく。
「……あ、兄上……たすけ――」
掠れた声が助けを求めるように空黎を呼ぶ。
だがその声は最後まで届かない。
がくり、と力なく膝を折れ、瞳から光が急速に失われていく。
暗夜の意識は闇に引きずり込まれ、やがて沈んだ。
「暗夜!」
空黎が駆け寄ろうとするよりも早く、百面の女は暗夜の体を壁際へと蹴りやった。その仕草は、まるで興味を失った玩具を捨てるようにあまりにも軽い。
「……貴様っ、」
百面の女が嗤う。
その貌は幾重にも揺らめきながら、たったひとつの欲望だけを映し出していた。
「さあ、ようやく二人きりね……あらやだ、もう一人邪魔者がいたわ」
百面の女の指先から、黒紫の妖気が文緒めがけて奔った。
それはただの妖気ではなかった。
空気を裂くような異様な圧力は、文緒の皮膚を粟立たせ、まるで心臓を鷲掴みにされたかのような感覚陥る。
避けなければならないのに体が動かない。
文緒はただ迫りくるそれを見つめることしかできなかった。
「……っ!」
空黎は振り返り、文緒を庇うように片腕を広げた。
瞬時に指を組み術を展開する。
文緒の目の前で、弾けるように淡い光の障壁が立ち上がり、妖気を一瞬で霧散させる。
「……無詠唱で散滅させるなんて。見事だわ」
感嘆の声が、闇の中で鈴の音のように響く。
「けれどその分、体への反動も大きい……そうでしょう?」
その言葉に呼応するかのように、遅れて空黎の体を杭のような痛みが貫いた。
肺が焼け、喉の奥に鉄錆の味が広がる。
視界は滲み、右目の奥で光が激しく明滅する。
崩れ落ちてもおかしくない痛み。
だが空黎は背後の文緒を振り返らなかった。
震える気配を腕越しに感じながら、己の足を地に縫いとめる。
「……黙れ」
低く押し殺した声が蔵の闇に響く。
その眼差しは、呪病に蝕まれた身を押してなお鋭く光り、百面の女を真正面から射貫いた。
(やはり、万全とはいかないか……)
結界の維持に霊力を割かれすぎている。すでに張った結界は、外界への被害を防ぐために維持し続けねばならない。
それに加え文緒の防御――二重の負荷が、未だ回復しきらぬ霊力を容赦なく削っていく。
以前なら複数の呪術を発現させることなど造作もなかったが、今の自分にはこれが限界らしい。
「ふふ……やっぱり衰えているじゃない」
百面の女が愉悦を滲ませ、幾重にも貌を揺らめかせながら歩み出る。
「その身を削ってまで庇うだなんて。二年前と同じ、でも……今度はどこまで保つかしら?」
空黎の額を汗が伝う。右目の奥は焼けるように痛み、呪病が妖気に呼応するように脈打っていた。それでも背後で震える文緒を振り返ることはせず、ただ前を睨み据える。
(守る……必ず。だが――このままでは……)
指先が微かに震え、結界の光が脆く軋んだ。
百面の女はその隙を見逃さず、再び手をかざす。
「もっと見せて。壊れていくあなたの貌を――」




