第四十四話 因縁の対峙
重い鉄扉を押し開けた瞬間、ひやりとした冷気が空黎の頬をかすめた。
内部は薄闇に沈み、古びた木箱と錆びた鉄器が乱雑に積まれ、油と黴の匂いが混じり合っている。軍の旧物資庫――数年前に廃棄されたと聞いていたが、今は妖気が沈殿する不気味な空間と化していた。
その闇の奥に人影が見える――空黎の胸が凍りついた。
「文緒!」
座り込んだまま、怯えたようにこちらを振り向く。大きく見開かれた瞳が、確かに空黎を映していた。
「空黎、さま……?」
(よかった、生きている――)
膝の力が抜けそうになるほどの安堵に堪えながら、足早に駆け寄った。
彼女の傍らに膝をつき、すぐに背後へと庇うように腕を回す。文緒の肩が小さく震えているのを感じ、それだけで、胸の奥が灼けるように熱くなった。
「怪我はないか」
短く問うと、文緒は震える唇でかすかに「はい……」と返した。
「あの、あちらに……」
文緒の視線が示す方向へ目を巡らせると、壁際に二つの人影が倒れている。
浅葱色の着物に白い前掛けを纏った女中と、もう一人――文緒の義姉である睦美――がぐったりと身を預けていた。いずれも意識はなく、血の気を失った顔色で横たわっている。
攫われていたのは文緒だけではなかった。
これはいったいどういうことか。
「やはり辿り着いたか、兄上」
その声に、空黎は息をのむ。
「……お前が、なぜここにいる?」
蔵の奥から姿を現したのは、紛れもなく双子の弟――暗夜だった。
だが、その姿がここにあること自体が信じがたい。
「呪術師でありながら、妖と結託したのか…?女中たちを攫い、文緒まで巻き込んで……俺をおびき寄せるために?」
抑え込んだ息を吐き、彼は静かに声を絞り出す。低い声音の底には動揺と、隠しきれない怒気が滲んでいた。
「……楠上。その者たち二人と文緒を連れて、ここを出ろ」
「!?お待ちください空黎様、すぐに応援を呼んで――」
「不要だ。それより帝都の守護を優先するよう伝達しろ……ここに《《あの妖》》がいるのなら俺にしか止められない」
二年前の戦いの光景は、今も鮮明に刻まれている。
空黎とともに百面の女に対峙したのは、いずれも精鋭といっていいほどの呪術師ばかりだった。
そんな彼らが、突如として狂ったように己の髪を掻きむしり、地に伏した。別の者は誰もいない闇に怯え、泣き崩れ、またある者は喚き散らし味方へ刃を振るう――
外から見れば、ただ錯乱したようにしか見えない。
だが空黎には分かった。
百面の女は彼らの心に侵食し、その弱さを抉る幻影を見せているのだと。
ひとつの後悔も罪悪感も持たない人生を歩む人間などいない。故に、相手の精神の奥底に直接突きつけられた幻影に抗えず、壊れる。自己が、破壊されていく。
その様を見せつけられながらも、封印術を完成させた瞬間のことを、今も忘れない。
だがその代償に、灼かれるような痛みと共に刻まれたのが――この呪病だ。
だからこそ、分かる。
あの妖を止められるのは、自分以外にいない。
「文緒、巻き込んで済まない。ここは危険だ、楠上とともに外へ出ろ」
「待ってください、空黎様だけ残して逃げるなんて…っ」
文緒の瞳が大きく揺れた瞬間、ただならぬ妖気が周囲を覆った。
「逃げられると思ったの?もう手遅れよ」
蔵の口に吊られた鉄環が勝手に跳ね、鎖が蛇のように走り、蔵の扉が勢いよく閉まっていく。閉じかけた扉の隙間から逆光が一筋細く射し込み、外気がひゅう、と肺に触れた。
(…まずい、閉じ込められる……!)
百面の女が微笑むと、扉上の影を一層濃さを増した。
「通すのは邪魔者だけ。あなたは逃がさないわ」
倒れた女中たちを抱えた楠上が、身を沈めるようにして扉の隙間に滑り込むと、まるで外気へと攫われていくように消える。
次の刹那、音を立てて扉はぴたりと閉ざされ錠が掛けられる。鎖が波打つように錠に絡みつくと、蔵の中は完全に閉ざされた。
外の光は断たれ、薄闇は一層濃く、鼻を刺す黴と鉄の匂いが充満した。
鉄と黴の匂いが充満する内側に残されたのは四人――空黎、文緒、暗夜、そして闇に浮く女。
(……あれを破壊するのは至難だな)
空黎は低く息をついた。
文緒の細い肩を背に隠すように庇いながら、冷えた視線を闇へと向ける。彼女の震えが衣越しに伝わった。
「空黎様……」
背後から不安げな声が洩れる。振り向けば、文緒の瞳が揺れていた。
「……大丈夫だ、俺が守る」
空黎は文緒を背に庇いながら片膝をつく。
右手で印を結びながら、左手を土間に押し当てた。
冷えた土の奥に霊力を流し込むと、床を伝って淡い光がひとつ、またひとつと円を描くように浮かび上がっていく。
「召請 四維固守 五方五府 十方十界 十二辰天 守環結界――開闢せよ」
詠唱が終わると、瞬く間に蔵全体を抱き込むように幾重もの環が重なった。光の環は壁を這い、天井を覆い、土の下深くへと染み渡っていく。
蔵の外と内とを明確に隔てる、ひとつの領域が完成した。
妖と呪術師の衝突が外界に及べば、その影響は計り知れない。
最強の結界術と封印術を継承する綾羅城家がまず果たすべきは、災いを帝都から隔絶することだった。
「相変わらず器用なこと。二年前と同じね……あなたの術は惚れ惚れするわ」
空黎は息を吐き、結界の光に照らされた女の姿を見据えた。
百面の女の声は甘く嘲るようで、幾重もの気配をまといながらこちらを見返している。
「黙れ。今度こそ二度と復活できないよう、封じてやる」
その眼差しは冷たく澄み渡り、結界の光が応えるように脈打った。




