第四十三話 後悔と決意
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空黎と楠上は、西へと足を進めていた。
周囲にわずかに残る霊力の残滓を頼りに辿っていくと、だんだんと『呪視』を発現させた右目の痛みは鋭さを増していく。
「文緒様は……ご無事なのでしょうか」
楠上の問いには答えず、空黎はただ瞳を細めてペンダントを握り締める。
赤い三日月の文様が刻まれた石は、かすかな熱を帯びていた。
文緒がいつも胸元に忍ばせていたもの。その鎖はまるで裂けたように千切られている。ただ落としたのではない――攫われたのだ。
先ほど視た像が頭から離れない。
文緒が手首を掴まれて必死に抗う姿。背後には幾つもの貌を崩れ落ちるように浮かべ、嘲笑を浮かべる女の影。空黎の胸に灼けるような怒りが広がった。
(本当に……百面の女が復活したのか)
右目に走る、針が突き刺さるような痛みに足を止めかけるが、それに抗うように前へと進む。
これは呪病の疼き――だが同時に、百面の女が動き出した証でもあった。近づけば近づくほど、あの妖の気配が濃くなっていく。
呪病という鎖を通じて、妖と自分は切り離せないのだと悟る。
(やはり、文緒を囮に……)
脳裏に、午前中に文緒と交わした会話がよぎった。
――どの道、君とは婚姻を結ぶことはないのだから。
文緒を守るために、敢えて冷たく突き放した言葉。
彼女が綾羅城家の名に、呪術界の思惑に絡め取られることを恐れての拒絶だった。
(守るために拒んだのに……このざまか)
文緒は今まさに妖の手に捕らわれてしまった。
自身を焼く痛みは呪病だけではない。胸を抉る後悔と自己嫌悪が、じわじわと血に混ざるように広がっていく。
「……文緒」
あどけなくも真剣に「あなたの隣りに立ちたい」と告げた彼女の表情が、まざまざと蘇る。
その願いを拒んだのは自分だ。
そして今、彼女は自分のせいで命の危機に晒されている。
「空黎様……あまりご無理をされては、」
「無理でも行く」
因縁の相手は、確かに近づいている。
痛みこそが道標。文緒もまだ――生きている。
――俺が必ず取り戻す。
楠上はその背を、畏怖と焦燥をないまぜにしながら黙って追い続けるしかなかった。
やがて時刻は夜になり、周囲の闇も濃くなっていく。
だが空黎の瞳には、迷いは一切なかった。
「……あれは……」
楠上が声を震わせた。
遠目にも重苦しい影を落とす、黒ずんだ蔵造りの建物群。
かつて、軍の物資を収めていたという古い蔵が点在していた区域。軍の拠点が移転され役目を終えた今は、人の出入りも絶えて久しい。
古い兵舎の跡が残る道を足早に抜けると、やがて石畳が途切れて。荒れ野の先に瓦と土壁の建物が現れた。
外観はただの蔵――外壁は長年の風雨に晒されて剥がれ落ちている。
だが、厚い鉄板で覆われた扉も窓も闇に沈み、全体が見えない手で覆い隠されたような異様さを放っていた。
「間違いない、ここだ」
妖の気配と呪病が共鳴し、空黎の体を蝕んでいる。
空黎は一歩、また一歩と蔵の前へ進む。
扉の前に立ち、印を結ぶ指先に静かな力を込めた。
琥珀色の瞳に烈しく光を宿しながら――重苦しい沈黙を裂くように、蔵の扉へと手をかけた。




