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嫁いだのは、余命一年の旦那様でした  作者: 綾瀬アヲ@2月初書籍発売


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第四十二話 真の目的

 ◇◇◇◇


 ――冷たい。


 頬をかすめる風がひやりとして、文緒はゆっくりとまぶたを開いた。


 見慣れない薄闇の中、足元の土間は湿り気を含んで(かび)の匂いが鼻を刺す。高い天井に黒ずんだ梁が走っているが、窓はなく外光の気配は一切ない。どうやら古い蔵か、物置の中らしかった。


 閉ざされた空間独特の淀んだ空気が、胸をじわじわと圧迫してくる。


(何があったんだっけ……)


 身体を起こしながら思い返そうとすると、頭の奥がずきりと痛む。何が起きたのか、頭の中が靄のかかったようにぼやけていた。


 辺りを見回すと、目に入った人影に息が止まりそうになった。


 一人の女性がうつ伏せに倒れている。浅葱色の着物に白い前掛けをつけた、綾羅城家の女中だ。そしてその隣りには――


「お義姉様……っ!?」


 義姉である睦美が、壁際にぐったりと寄り掛かるように崩れていた。華やかな着物は泥で汚れ、いつもは綺麗に結い上げている髪は乱れて頬にかかっている。二人とも顔は蒼白で、完全に意識を失っていた。


 やはり《《あの時》》の睦美は本物ではなかったのだ。

 その確信と同時に、視界が暗転する直前に見た女の不気味な貌が脳裏に蘇って、体が自然と震える。


(だとしたら……あれはいったい誰――?)


 得体のしれない恐怖の渦にのまれるように、文緒の鼓動が早まっていったその時。


「ようやく目を覚ましたか」


 低く抑えた声が、湿った空気を震わせる。

 振り返った文緒の目に映ったのは、薄闇の奥から浮かび上がるように歩み出てきた黒い影。


「……あ……っ、」


 文緒はその顔を知っていた。

 綾羅城家に来て間もない頃、旧邸で一度だけ顔を合わせたことがある。


 ――死にかけの兄上のもとに嫁いでくるなんて、どんな物好きかと思って見に来たよ。


 空黎と同じ琥珀色の瞳を宿しながら、そこに冷ややかな影を落とす男。

 綾羅城暗夜。


 あの挑発的で悪意のある態度ははっきりと覚えている。そして今、その同じ眼差しが暗がりの中から文緒を射貫いていた。


「どうして、暗夜様が……?ここはどこなのですか?」


 なぜ彼がここにいるのか。睦美や女中が倒れているのか。疑念が渦巻くのに、喉の奥が乾いてうまく言葉が出てこない。

 目の前の暗夜は、影に沈んだ顔に薄い笑みを浮かべたまま。その姿は双子の兄・空黎とよく似ているはずなのに、纏う空気はまるで違っていた。


「単刀直入に聞く。兄上が回復してきているというのは本当か?」


(どうしてそれを……)


「綾羅城家の使用人たちが話していた。今まで寝たきりだったのが、最近旧邸の庭に出ていると」


 冷たく吐き出された声に、文緒は一瞬息をのむ。

 なぜ彼が今、空黎の病のことに言及するのか。そしてこの場所の異様さ――すべてが繋がっていると直感する。


「雪月花に聞いてもはぐらかされるばかりだ。だったら、傍にいるお前に聞くしかないだろう」


 空黎が少しずつ回復していることが、本邸でも噂になっているのだとこの時知った。そしてその事実を、暗夜が好ましく思っていないことも。


「それを確かめるために……?」

「勘違いするな、俺がお前を攫ったわけじゃない。それだけなら旧邸で捕まえて問いただせば済む話だ」


 暗夜はまるで文緒の浅慮を嘲るように笑った。


「これは俺の意志じゃない……ある御方の意志だ」


 暗夜は薄闇の奥を一瞥し――その目がわずかに翳った。

 ぞわりと空気が揺らぎ、何かの気配がひたりと近づき形を帯びていく。


(え……っ、)


 文緒の視線の先で、女が静かに歩み出てきた。

 一瞬は睦美の姿に見えたが、違う。その容貌はまるで水面に石を投げ込んだように、いつまでも揺らめいて定まらない。それが一層恐怖を煽る。


「……あなたは、誰……?」


 思わず洩れた声は掠れていた。

 返答を待つ間さえ、息が詰まる。


 女は暗夜の背後に立つと足を止め、ふと艶やかに口角を吊り上げた。人の笑みと寸分違わぬのに、どこか温度を欠いたその笑顔に背筋が冷たくなる。


「名など無いわ」


 落ち着いた甘やかな声が、耳の奥に絡みつくように響いた。


 女は暗夜の背に寄り添い、指先で首筋をつうっとなぞる。

 触れられた暗夜の肩がわずかに強張るも、振り払おうとはしない。それがかえって女の支配を雄弁に物語っていた。


「けれど――人間たちはこう呼ぶの。『百面の女』と」


 ぞくり、と文緒の全身が粟立つ。


 空黎が二年前、命を懸けて封じた妖。

 雪月花が語っていた――空黎の呪病の元凶。


(この妖が……空黎様を……?)


 文緒がこの目で妖を見たのはこの時が初めてだった。

 呪術師に必要な霊力を持たない本條家で育った彼女にとっては、妖や物怪の存在は知っていてもあまり身近な脅威ではなかった。


 それが今、文緒の目の前にいる。

 足はすくみ、爪が掌に食い込んで痛みを訴えても、握り締めた手が固まって解けない。恐怖が理性を凌駕すると、まったく体が動かないのだと知る。


「ねぇ、暗夜」


 甘やかに名前を呼び、女は暗夜を見上げる。

 その声音は媚びるようでいて、束縛にも似た響きを持っていた。


「あなたの劣等感も私にとっては良き鎖。どれほど足掻いても逃れられないのよ、兄の影に生まれ落ちた時からずっと」


 百面の女は暗夜の反応を愉快そうに眺めると、耳元に唇を寄せる。


「二年前のことよく覚えているわ。勇猛に戦う兄に庇われながら――何もできず震えていた可愛い(あなた)の姿を」


 暗夜の瞳に激情が嵐のように渦巻き、やがて歪む様をはっきりと見た。

 百面の女は、暗夜の弱いところを熟知している。彼が誰にも見せたくないであろう最も脆い部分を、迷いなく抉ったのだ。


 文緒は混乱した。

 暗夜は百面の女と繋がっているわけではない――?


「……あなたは、何を、望んでいるのですか……?」


 女はゆっくりと文緒へ顔を向ける。

 笑みは人のそれに酷似しているのに、温度のない虚ろな眼差しが底冷えするほどの恐怖を呼んだ。


「望むもの?――たったひとつよ」


 百面の女の声は、甘く柔らかいのに耳の奥に刺さるようだった。


「二年前、私を封じた綾羅城空黎に再び会うこと」


(空黎様を……狙って……!?)


 女は暗夜の肩に指を置き、艶やかに笑む。そして今度は爪を立てて蛇のように這い上がりながら暗夜の肩を辿った。


「私を(とざ)したあの夜、あの呪術師は私の貌を覗き――代償として呪いを背負った」


 ぞくり、と文緒の背が凍る。

 呪病――やはり、この妖が空黎を蝕んでいる原因なのだ。


「あの苦悶に歪んだ眼差しが忘れられない。だからもう一度、その貌を見たいの。今度は壊れるその瞬間まで」


 背筋を這い上がる悪寒と同時に、文緒は理解した。


 自分は囮なのだ。

 空黎をおびき出すために、ここに連れて来られた。


「……こんなことをしても、空黎様は来ません」


 それは半分、自身に言い聞かせるための言葉でもあった。

 何も言わず屋敷を出てきた文緒に、空黎が辿りつけるはずがない。帰らないことに気づいたとしても手掛かりもない。そう信じようとした。


「それはどうかしら?」


 百面の女の唇に、愉悦がにじむ。

 細い指先が文緒へ伸び、粘りつく悪意が空気を歪めた。


「私は彼に消えない呪病を刻んだの。それは鎖のように彼を縛っている……その意味が分かる?」


 その言葉は、呪病がただ空黎を衰えさせるだけの病ではないことを意味していた。

 抗いようのない鎖――それが否応なく、この妖へと彼を導いてしまう。


「でも、それだけでは足りない。だからお前が必要なのよ。彼が必ず追いすがる存在が」


(駄目です……来ては駄目……空黎様……!)



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