第四十一話 呪視
◇◇◇◇
「空黎様、よろしいでしょうか」
突然襖が音を立てて開かれ、楠上が姿を現した。
普段であれば、こちらから声をかけるまで決して入ってくることはない。そう心得ているはずの彼が、この時ばかりは様子が違った。
「どうした」
空黎は訝しげに書物から顔を上げる。
「文緒様が、まだお戻りになられていないのです」
その声音には、明らかな焦りが混じっていた。
楠上が文緒に買い物を任せたのは昼餉の時分だという。
用向きならそれほど長くはかからないはず。だが、窓の外からはすでに西日が射し込み、部屋の中に影が伸び始めていた。
文緒は、いつもなら八つ時には顔を見せる。
ただ、今日は広間での出来事のせいで顔を合わせづらいのだろうと、空黎は深く追わずにいた。それでも、ずっとこの旧邸内にいるものだと思い込んでいたのだが。
――どの道、君とは婚姻は結ぶことはないのだから。
あの時、目の端で見えた文緒の表情。
揺らぐ瞳、かすかに震えた唇。背を向けた肩は小刻みに揺れて、何かを堪えているのは明らかだった。
自分の言葉が彼女を傷つけたのだと分かっている。
けれど、そうするしかなかった。
綾羅城家と蒼月家。
共に三大呪術家の一角を担っているが、長く複雑な関係を抱えている。
文緒が蒼月直貴の実の娘であり、途絶えたはずの月天術が文緒の内に息づいている。そのことがもし明るみになれば、文緒は利用されるに違いない。
蒼月家だけではない、この綾羅城家にさえも。
それだけは避けなければならない。いざとなれば、序列の低い本條家では盾となるには弱すぎる。
だから、遠ざけるしかなかった。
それでも文緒は言った――もっと呪術を使えるようになりたい、と。
空黎の役に立つため、そして支えるために。
(―――そんなことは、考えなくていい)
それが空黎の本心だった。
文緒を呪術師にするつもりなどない。二人で行う特訓も、彼女が再び己の力で自らを削ることがないよう、最低限にとどめるつもりだった。
――誰かを近くに置くことを、そんなに恐れることはないよ。
いつだったか、雪月花はそう言った。
確かに今は、文緒が無意識に発現していた月天術のおかげで、少しずつ体力も霊力も戻しつつある。だが、先が見えないことに変わりはない。
たとえ余命一年を乗り越えたとしても。
さらに一年先、二年先――果たして自分は生きているのか。
隣りに立ちたいと言ってくれた文緒の側に、自分が立てているのか。
(これは、そんな簡単な話ではない……)
空黎は固く唇を引き結んだ。
「文緒は本当に旧邸にはいないのか?」
「はい。文緒様の自室も、もしやと思い例の地下書庫も探しましたがお姿がなく。台所も火が消えたままで……」
文緒の姿が見えない――それは小さな棘が刺さった感覚と同時に、嫌な予感が胸を掠めた。
得体のしれない何かが蠢いているような気がする。
今この瞬間にも、取り返しのつかない何かが。
「俺も探そう」
「しかし、お外へ出られるのは…」
「そんなことを言っている場合か?」
空黎が楠上の懸念を無視して立ち上がった。
楠上によれば、玄関先で文緒と偶然鉢合わせして買い出しを頼んだあと、表門から出るところまでは見届けたという。
二人は並んで表門を出た。
「商店へ向かわれたのなら、おそらくこちらの道を行かれたのではないかと」
西日で赤く染まり始めた石畳を歩きながら、周囲を手分けして探す。程なくして石畳にある継ぎ目の隙間に、小さな光がちらりと瞬いた気がした。
空黎が目を凝らすと、それは文緒がいつも胸元に忍ばせていたペンダントだった。
石の中心に、赤い三日月の文様――間違いない。
文緒の月天術の発現を抑えるため、空黎自身が仮封を施したものだ。
「……文緒のだ」
空黎が膝を折り、鎖の部分が千切れたそれを拾い上げる。
空黎が呼吸を整え、もう片方の手で印を結ぶ。
その刹那、かすかな痺れとともに呪のざわめきが走り、周囲の空気が張りつめた。
目の前の光景に、楠上は息をのんだ。
琥珀色を取り戻しつつある空黎の右目に、不思議な遊色の輝きが宿るのを目にしたからだ。
――呪視。
周囲の霊力の残滓から、その痕跡を映像として「視る」ことができる呪術。最強呪術師と呼ばれた空黎が会得した、特別な視が開いた。
空黎の右目の内には、ある光景が幽玄な像として浮かび上がっている。
文緒の手首を掴む白い手。
必死に抗う文緒と、その背後で笑みを浮かべる幾層にも崩れていく女の貌。
その貌が一つに定まる――嗤うその貌に空黎は目を見開いた。
「まさか……っ、」
忘れるはずがない。
二年前、空黎が自らの手で封印した妖。
そして、己に呪病という消えない呪いを刻みつけた因縁の存在――
―――百面の女。
その貌が映った瞬間、像は闇にのまれてぷつりと途切れた。
残るのは石に宿った呪力の痕跡。
そして、一つの確信だけが強く胸を灼く。
「――文緒は、攫われた」
空黎の瞳が烈しく輝きを帯びる。
楠上は畏怖と敬意が入り混じったまま、その横顔をただ見つめるしかなかった。




