第四十話 邂逅
◇◇◇◇
昼餉を空黎の自室へと運んだあと、文緒は膳を整えて一礼してそのまま部屋を出た。
「せっかくなら共に」と空黎が言ってくれた日から、同じ卓を囲むことがささやかな習慣になっていたけれど、今日は向かい合って座る勇気がどうしても持てなかった。
そして、空黎からも引き留めてもらえなかったことに、またちくりと胸が痛む。
廊下に出てから、胸の奥に溜めていた息を長く吐き出した。
せめて外の風に当たれば気持ちも晴れるかもしれない。気分転換に庭を散歩しようと思い立って、文緒は廊下を進んだ。
そして玄関の引き戸を開けたところで、不意に人影と鉢合わせた。
「あ、楠上さん……」
姿勢を正して立っていたのは楠上だった。
思いがけぬ遭遇に、文緒は足を止めて小さく会釈をする。
「おや、ちょうど昼餉の時間では?」
柔らかく問いかけられて、文緒は言葉に詰まる。
「そうなんですけど、ちょっとあまり食欲がなくて…」
「左様ですか?どこかまた具合でも」
「いえそうじゃないんです、ちょっと特訓で疲れたのかもしれません。楠上さんはどうされたんですか?」
「それが――」
これから買い出しに出かけようとしていた最中、本邸からの急な呼び出しで出向かなければならないという。
買い求める品々が書き記されている紙片を手に、困ったように眉を寄せた。
「そういうことなら、私が代わりに行ってきますよ」
「いえ、文緒様にそのようなことは、」
「大丈夫です。ちょっと気分を変えたいと思っていたところなので…それに本條家にいた頃はよく任されていましたから」
一瞬ためらった楠上は、やがて深く頭を下げる。
「……恐れ入ります」
そう言って紙片を手渡す時、楠上は一瞬ためらいがちに文緒の顔を見た。何かを察したようなその眼差しに、文緒は思わず小さく笑みを返す。
「それでは行ってきますね」
「はい。では、どうかお気をつけて」
買い出しの支度を整え、文緒は漆黒の表門を抜けて外に出た。
吹く風が肌を撫でて、胸に溜め込んでいた淀んだ息が抜けていく気がする。
(まずは商店に行ってから、酒屋で調味料を買って……)
文緒は手元の紙片を確かめながら、石畳を踏みしめる。
しばらく歩いていると、不意に、聞き慣れた声が耳を打った。
「――あら、文緒ちゃん!」
顔を上げると、そこに立っていたのは義姉の睦美――兄・義之の兄嫁だった。
睦美はいつものように柔らかな色合いの小紋をまとい、気さくな笑みを浮かべている。思いがけぬ再会に驚きつつも、一瞬で胸の中に懐かしさが広がった。
「久しぶりに会いたくなっちゃって、近くまで来たの。どう?元気にしてる?」
「はい、元気にしています。お義姉様は?父や母たちも元気ですか?」
「ええとっても。せっかく会えたからいろいろ話したいわ。そうだ、お屋敷に連れて行ってもらえる?」
本條家を出る時「またお茶しましょう」と約束したことを思い出す。
けれど、今の言い方にはどこか引っかかるものがあった。
睦美は明るく天真爛漫な性格であったけれど、たとえ義妹の嫁ぎ先とはいえ、あの綾羅城家の屋敷に連れて行ってというのは、唐突すぎる気がした。
(会うのが久しぶりだし、気のせいかな…)
文緒は違和感を振り払うように笑みを作った。
「実はちょうど買い出しに行くところなんです。その後でよければ、甘味が美味しいお店でお茶でもしますか?」
空黎のいるあの旧邸に睦美を案内するわけにもいかない。それならどこか外で、と思ったのだが。
「いいえいいわ。私、甘いものは好きじゃないから」
「え……?」
思わぬ返答に文緒は心底驚いてしまった。睦美は甘いものが、特に舶来菓子には目がないくらい大好物だったはずだ。
「それよりも、空黎様はご一緒じゃないの?」
「え?……はい」
「そう。最近ご容体がすっかり良くなったと聞いたから、お目にかかりたかったのよ」
――おかしい。
(……空黎様の容態が良くなったなんて、そんな話を一体誰から……?)
文緒の中で違和感がどんどん膨らんでいくと同時に、次第に不安と恐怖に変わっていく。
「……あなたは、誰なんですか……?」
本能が告げていた。
目の前にいるこの人は――睦美ではない。
文緒の問いかけに、睦美はにっこりと口角を上げた。
次の瞬間、その貌にぴしりとヒビが入ったかのように、微笑みが裂けて崩れていく。
白い肌が剥がれ落ちるようにずるりと形を変え、見知らぬ女の貌が覗いた。かと思うと、次々と仮面を剥ぐように容貌が移り変わっていく。
「っ……!」
大切な義姉の顔が、無数の見知らぬ女たちの貌に食い破られていく。
その光景に文緒は恐怖に突き動かされ、思わず後ずさった。
やがて貌はひとつに定まり、吊り上がった唇がにたりと嗤う。
ぞわりと冷たい気配が肌を這った瞬間、女はこちらへと手を伸ばしてきた。
(これは……誰……?)
悲鳴を上げようにも、どうしてか声が出ない。
逃げようと足を動かすより早く、白い手が視界を覆うように迫った。
そして視界が大きく揺らぎ――文緒の世界は、ぷつりと暗転した。




