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嫁いだのは、余命一年の旦那様でした  作者: 綾瀬アヲ@2月初書籍発売


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第三十九話 すれ違う心

 ◇◇◇◇


 朝のしんとした空気に包まれた広間で、文緒は姿勢を正しながら空黎と向かい合う。

 これから始まるのは二人だけの特訓。

 朝餉を終えた後に行うこの時間は日々の決まりごとになりつつあった。


 初めは上手く掴めなかった自分の中にある霊力。けれど今は、自分の中を巡る力の輪郭を少しずつ感じ取れるようになってきた。

 おそらく自分は力があっても才能はない――それでも根気よく導いてくれる空黎の存在は、文緒にとって畏れ多くも心強いものだった。


「呪術を行使する際には印を結ぶ。儀礼的な側面もあるが、術を発現するための重要な鍵になるものだ」


 空黎の指先が流れるように形を作る。

 文緒もそれを真似るが、すぐに指が震えてきちんと保つことができずにいた。


「こうすることで意識と霊力を集中させて臨界状態を作る。これが一番基本の印だ。強力な術ほど印の形も変わる」

「……すごいですね」


 空黎が指先を組み替える動作を見ながら、文緒は感嘆の声を上げた。

 自分は基本の型ですら指が()りそうになるくらいなのに、空黎はまるで呼吸のように自然に動かしてみせるのだから。


 文緒の震える指に気づいた空黎が手を伸ばし、形を整えるように軽く押さえる。

 その一瞬触れた温もりに、否応なく文緒の鼓動が高鳴ってしまった。


「まだ少し揺らいでるな」

「っ、すみません…」


 集中しなければ。

 文緒は深く息を吸ってから、もう一度神経を研ぎ澄ませる。


 体の奥で霊力が流れを増していくのを感じる。

 指先に集まる力が徐々に高まって、やがて指先に淡い光が生まれた。


「……っ、これで……どうですか」

「あぁ、悪くない。形になり始めているな」


 空黎の眼差しの奥にも、わずかに驚きの色が宿った。


「印が結べるようになったら、次に詠唱を唱える。そうすれば自身の制御で呪術を顕現できるようになる」

「……!」


 空黎の言葉に、文緒の瞳が輝く。

 ようやく――ほんのわずかでも、彼の力になれるかもしれない。


 文緒は、まだ熱を残す指先をぎゅっと握りしめると、前のめりに言葉を投げた。


「あの、じゃあ次は詠唱を教えてもらえますか?」


 はやる気持ちを抑えきれずに問うと、空黎が目を伏せながら首を振る。


「この前も焦るなと言っただろう」

「そうですけど、少しでも早く身につけたら、私でもお役に立てるかもしれないですし…」


 指先に力を込めて、胸の奥にある言葉を吐き出した。


「ちゃんと……空黎様の隣りに立てるようになりたいんです。助けられるばかりじゃなくて――私も、ちゃんと支えたいんです」


 文緒が無意識に使っていた『月天術』の影響で、空黎も少しずつ霊力を取り戻しつつある。けれど今は仮封された状態だ。何より空黎の呪病が完全に治ったわけでもない。


(自分がもっと、呪術を制御できるようになれば……)


 きっと空黎を救える――そう信じていた。


「……そんなことは考えなくていい」


 まっすぐに見つめる文緒の目を、まるで避けるように空黎は視線を落とした。その横顔に、暗い影が差す。


「どの道、君とは婚姻は結ぶことはないのだから」


 低く告げられた声は、どこまでも冷ややかだった。


「え……?」


 空黎の横顔はどこまでも静かで、揺らぎひとつ見せない。

 ただ淡々と事実を告げたかのようで――けれど、それがかえって突き放す鋭さを持っていた。


(どうして……?)


 文緒が綾羅城家にやってきた当初よりも、空黎の表情は和らいできて――閉ざされていた部屋に柔らかな光が差し込んだように、少しずつ心を開いてきてくれていると、そう思っていた。


 このままずっと、傍にいられるものだと思い込んでいた。


(でもそう思っていたのは、自分だけだった?)


 声にならない言葉が、胸の奥で震える。

 胸がぎゅっと収縮して呼吸が苦しい。喉が熱く、今にも涙が込み上げてきそうで、文緒は必死に瞬きを繰り返した。


 泣きたくはない。

 涙を見せれば、彼の心をさらに遠ざけてしまう気がしたから。


 必死に笑顔を装おうとしたが、口角は思うように動いてくれない。

 それでも、せめて声だけはといつもの調子を装う。


「……もうすぐお昼ですね。私、用意してきます」


 視線を合わせるのが怖くて、文緒は深く頭を下げてからすぐに踵を返した。

 背を向けてしまえば、もう表情を隠せる。


(……これ以上、何かを言ったら駄目になってしまう)


 静まり返った広間に、文緒の足音が遠ざかる音だけが響いた。


 振り返ることもできないまま、廊下へと出て姿を消す。

 その背に残した空黎の表情を、文緒は最後まで確かめられなかった。


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