第三十八話 忍び寄るもの
◇◇◇◇
綾羅城家から見て北東の先、やや小高い丘の上に刹那家の屋敷はあった。
表門をくぐると、奥に控えた瓦屋根と白壁に囲まれた母屋が目に入る。風格はあるものの実用的で落ち着いた造り。
綾羅城家本邸の西洋館と比較すると、華美さはなく簡素な佇まい。それを見るにつけ鼻で笑うのは、この《《訪問者》》の癖だった。
静けさに満ちた母屋の回廊は、呪術医療の研鑽を重ねる家らしくどこからも広大な薬草園を見渡せた。甘やかな花の匂いに混ざって、薬草ならではの独特な香気が風にのって屋敷全体を覆っている。
薬と毒――その両方を孕む匂い。それが刹那家の屋敷だった。
立ち止まった部屋の前で、声をかけることもなく硝子戸を開ける。
研究室のようなその部屋は開けた瞬間に薬草を煎じる香りが鼻をつき、訪問者は反射的に顔をしかめた。
「…まったく、開ける前に声くらいかけたらどうだい?」
白衣を纏った刹那雪月花が呆れたように振り返ると、彼にとってのもう一人の幼馴染である綾羅城暗夜を出迎えた。
暗夜は空黎の双子の弟だ。幼い時分は歳の近い三人でこの薬草園を遊び場にして、雪月花の父に怒られたものだった。
雪月花は、空黎とよく似た面持ちを持つもう一人の幼馴染を一瞥すると、手元の硝子瓶に目を戻す。
「君が訪ねてくるなんて、珍しいこともあるね」
そう嘯きながらも驚いた様子はなく、相変わらず飄々としている。まるでこの訪問すら予期していたかのようだ。
暗夜は奥歯を噛みしめる。
胸に渦巻くものを押し隠しながら、吐き捨てるように言った。
「兄上の呪病が治ってきてるというのは本当なのか?」
雪月花は硝子瓶を指先で弄びながら、薬草や洋紙が散乱する机に身を凭せる。
「なんの話だい?」
「しらばっくれるな。本邸でも噂になっている」
暗夜の脳裏に、女中たちのひそめく声が蘇る。
――最近、空黎様が旧邸のお庭を散策されているそうですよ。
――空黎様って寝たきりのはずじゃなかった?まさか呪病を克服されたとか…?
――刹那様でさえ首を傾げておられるらしいわ。本当に不思議な話よね?
言葉を交わす女中たちの声は、華やかな世間話の調子を装っている。
そのひとつひとつに頭に血が上り頬が熱くなるのに、背筋は酷く冷えていった。
――やっぱり空黎様は特別……きっと選ばれた御方なのよ。
まただ。いつだってそうだ。
――選ばれた存在。特別な呪術師。
双子として生まれた時からずっと、比較されて生きてきた。
どんなに術を磨いても学業で努力を積んでも、兄への賞賛が自分に向けられることはなかった。その背中は遠くただ『空黎の弟』という枷だけがまとわりつく。努力すればするほど、皮肉なほどにその差が際立った。
誰も自分に期待しない。
誰も自分を顧みない。
そんな環境が一変したのは二年前。
呪病に倒れた兄に代わり、自分がようやく前に立つ番が訪れたはずだった。
――空黎はもう終わりだ。暗夜、お前がこれから綾羅城家を背負っていくことになる。いいな?
父が自分に告げた言葉。
その言葉に、自分がどれほど高揚したか。
もう兄の存在に縛られることはない。
ようやく自分自身の名で立つことができる。
空黎は呪術師としての力を失っただけでなく、立つことすらできないほど衰えていたはず。
(呪病に蝕まれて、あとは緩やかに死を待つだけだった。それなのに――)
――ということは、もしこのまま回復されたら、やはり次期当主は暗夜様ではなく、空黎様に?
その囁きが落ちた瞬間、胸の奥がざわめいて激しく思考をかき乱した。
耳を塞ぎたいのに、女中たちの声はいつまでも耳の奥にこびりつき、暗夜の焦燥を煽り続ける。
軽やかな笑い声が混じったその声が、暗夜の耳には嘲笑のようにしか聞こえない。
無意識に握りしめていた拳に爪が食い込む。
気がつけば、滴り落ちた血が板張りの床を赤く濡らしていた。
「―――暗夜?」
雪月花の声に意識を引き戻される。
「その右手どうしたの?怪我でもしたのなら僕が診ようか」
何気なさを装いながら、雪月花の視線が右手の巻かれた包帯に注がれる。こういう抜け目のなさが嫌なのだ、と暗夜は不快そうに眉をひそめた。
「……質問してるのは俺だ」
雪月花は淡い笑みを浮かべたまま、瓶の中で薬液を軽く揺らす。
「僕も詳しいことは分からない。ただ、呪病の症状が和らいでいるのは確かだよ」
「どんなふうに」
抑えきれない声の尖りに、雪月花は肩をすくめ困ったように笑った。
「随分急いているね。空黎が本当に回復しているのなら、綾羅城家にとってはむしろ喜ばしいことじゃないか?」
本当にただ不思議そうに問うだけ。
だがその飄々とした物腰が、暗夜の胸の奥をざわつかせる。
(分かっているくせに――)
自分の焦りだけが浮き彫りになっていくようで、余計に苛立ちが募っていった。
◇◇◇◇
苛立ちを隠しきれぬまま、暗夜は刹那家の屋敷をあとにした。
雪月花は何かを知っている。
呪病研究に傾倒するあの男が、空黎の現状を見て大人しくしていられるはずがない。回復の要因を何か掴んでいる、少なくとも彼なりの見立てはあるはずだ。
それを黙っていたのは仮説の域を出ないせいか、それとも。
(……あいつも、空黎側の人間か)
黄昏時――沈みゆく陽が周囲を朱に染め、長く伸びた影が路地を覆う。
その時だった。
「ただいまお帰りですか、暗夜様」
不意に声をかけられ、暗夜は足を止めた。
振り返れば、そこには浅葱色の着物に白い前掛けを身につけた女が立っていた。綾羅城家で働く女中の一人で、本邸で何度か見かけたことのある顔だ。
「……あぁ」
軽く返して歩き出そうとすると、女は小走りに駆け寄って隣りに並ぶ。にこやかに笑っているが距離感が妙に近い。
「刹那様のところへ行かれていたのですね?」
「……そうだ」
「どのようなお話をされたのですか?」
女中ごときが、妙に馴れ馴れしい。
そもそもこの時間なら、女中は夕餉の準備で忙しい時間帯のはずだ。それなのに、手には何も持っておらず買い物に出たわけでもない。だとしたら、こんなところで何をしているのか。
「お前には関係ないことだ、でしゃばるな」
不快を覚えた瞬間、暗夜の脳裏に女中たちの噂話が蘇った。
――そういえば、スエちゃんを見なかった?
――え?私は見てないけど。
あれは、女中たちの噂話を立ち聞きしていた時だ。
聞いたときは、取るに足らない雑談だと思っていた。だが、暗夜は女の顔を見て、この女中の名前をはっきりと思い出した。
(……スエ?そういえばこの女……)
顔を上げて、女の顔を一瞥する。
すると――その貌が突如歪み、揺れた。
肌が水面のように波打ち、鼻梁が崩れ、別の女の貌が浮かび上がる。
若い娘、年老いた女、母のような微笑み、泣き、笑い、怒り――幾重にも顔が重なり、目まぐるしく変化を続ける。
「な……っ」
喉が凍りつき、言葉が出ない。
顔色を失った暗夜を前に、やがて一つの貌に定まると唇を吊り上げた。
「お会いするのは二年ぶりですね……綾羅城暗夜様」
暗夜はその女――いや、妖の名前を知っていた。
知らぬはずがないのだ。
「お前は……百面の女……っ、」




