第三十七話 二人きりの特訓
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旧邸の奥、かつて離れとして使われていた広間。
翌日から、空黎による霊力の扱い方の特訓が始まった。まずは、自分の中にある力を感覚として捉えることが第一目標だ。
広間の中心に据えられた机の上には、古びた巻物や厚い書物が積まれている。文緒はその一つを開き、必死に文字を追っていた。
空黎は低く説明しながら、紙の上にさらさらと筆を走らせる。
円と三角、符の組み合わせ。その中心に記号が書かれて、まるで美術の図案のような幾何学模様に見える。
筆先で中央の三角を示しながら、空黎は続けた。
「呪術を発現する要素は大まかに三つある。源、構築、そして顕現だ。まずは術の源。己の霊力なのか外界から借り受けるのか、ここを定めなければ始まらない」
「外界から?」
「そうだ。五行を司る霊獣からその力を借り受ける。ただ基本は己の霊力を主とする。呪術の基本は、意識の具現化だ」
それは覚えている。呪術は霊力と心とが深く結びついている。心が乱れれば術も崩れてしまう、と教えてくれたのは空黎だ。
文緒が頷くと、空黎は紙の上に描かれた三角の線をなぞっていく。
「この霊力の源から術式を定める。次に印で術式を構築して詠唱で波長を整え、最後に顕現によって現実に干渉する」
「……えぇと……」
途端についていけなくなってしまい、文緒は思わず首を傾げる。その様子を見た空黎は、筆を止めて言葉を探すように沈黙した。
「あー……つまりだ」
空黎は眉間に手を当て少し考え込むと、手元の紙に新しく線を引く。
「例えば――水だ」
「水、ですか?」
「川の流れを想像するといい。源は水源だ。そこから水が流れ出す。印と詠唱は、川に石を置いて流れを整えるようなものだ」
石を置きすぎれば水はせき止められ、足りなければ濁流になる。ちょうどよく配置してやることで、力は澄んで安定する。
「どうだ、少しは想像できそうか?」
比喩を探して試行錯誤する空黎の横顔に、文緒は思わず笑みをこぼした。
「……何を笑っている」
「すみません。空黎様が、なんだか先生みたいで」
「先生ではない。そもそも人に教えるのは得意じゃないんだ」
空黎が天才呪術師と称されたのは、その霊力の強さだけではない。
教えられなくとも術式を理解し、完璧に顕現させ、それを凌駕する呪術へと昇華させてしまう。ただそれゆえ、他人にその感覚を伝えるのは苦手だった。
少しだけ眉を寄せて軽く首を振るその仕草は、どこか照れ隠しのようにも見える。得意じゃないと言いながらも文緒に寄り添おうとしてくれる空黎に、頬が綻ぶのを抑えられなかった。
「ちょっと、やってみます」
教えてもらったように、自分の体の奥に広がる力を想像する。
それは、透明な水流のような。
今まで雲を掴むような存在だった霊力の感覚が、川の流れに重ねることでゆるやかに形を持ち始めていく。
水面の揺らめき、底を這う粒のような煌めき。それが胸の奥から指先へと伝い、まるで川筋を辿るように全身を駆け抜けた。
「……あ、」
思わず声が漏れて、文緒は自分の指を見つめた。
指先が淡く震え、空気に細波が走る。
まだ目には見えないけれど、そこから何かがまるで淡い粒が生まれているような――それは確かに、自分の中から湧き上がるものだった。
「今のは、悪くない」
低く響いた空黎の声に、文緒ははっと顔を上げる。
「君の中の霊力が自然と安定した」
「本当ですか…?」
空黎は小さく頷いた。だが、自身が褒め慣れていないことに気づいたようにわずかに視線を逸らしてしまった。
それでも声の調子はどこか柔らかくて、思わず口元がほころぶ。
「もしかすると、これで私が初めての弟子ということになりますか?」
その言葉に、空黎は小さく瞬きをした。
そしてほんの一拍の間を置き、ぽつりと零す。
「……君は弟子ではない」
あまりに小さな声だったので、文緒は首を傾げた。
「え? 今、何か――」
「いや、なんでもない……次の頁に入るぞ」
空黎はすぐにかぶせるように言う。
なんでもない、とはぐらかされたけれど、その横顔には普段見せない柔らかさが宿っている気がして――文緒の胸の奥が、不思議に甘くざわめいた。
「あの、この前空黎様がしてくださった仮封ではなくて……自分で制御してみたいんですけど」
その言葉に、空黎の眼差しが一変する。
鋭さを帯びた琥珀色が、まっすぐに彼女を射抜いた。
「駄目だ」
「ど、どうしてですか?」
今ならもう少しでできそうな気がする。
自分の中で芽生えた感覚を確かめたい、その衝動は抑えられなかった。
「確実に制御するには顕現が必要だ。顕現とは術が現実に干渉する瞬間だ。君のまだ不安定な状態で無理をすれば、術は霧散するか術師に跳ね返る。仮封ごと弾け飛ぶぞ」
思いがけず強い否定の言葉に、文緒は肩をすくめた。
自分では上手くいっていると思っていたけれど、空黎から見ればまだまだ危なっかしいものでしかない、ということだ。自分の考えが甘さに俯くと、膝の上で指を強く握りしめてしまう。
「……そう、ですか」
しゅんとした声が広間に沈む。その様子を見て空黎は眉を寄せ、小さく息を吐いた。
「あー……言い方が悪かったな」
わずかに視線を逸らしながら、言葉を探すように間を置く。
「……力の形はもう掴めている。あとは精度を重ねればいいだけだ。今のまま進めば必ずできるから、焦る必要はない」
しばらく座学を中心にやってどれくらい経っただろう。
集中を続けるほど次第に文字が滲んで上滑りして、同じ行を何度も追ってしまう。脳はすでに疲労で悲鳴をあげていた。
「……なんだか、お腹空いてきませんか?」
堪えきれずに文緒が呟くと、空黎は顔を上げた。
「まだ八つ時には早いだろう」
「でも、集中すると甘いものが欲しくなってくるといいますか……」
「そういうものなのか?」
空黎は疲労を感じていないのか不思議そうにしている。あまり響いていない様子に、文緒は口を尖らせたくなってしまう。
「……いいです、空黎様の分は無しにしますっ」
「待て、それは卑怯だ」
本当に不服そうな声に文緒から笑いがこぼれる。少し緊張に満ちていた広間の空気がふっと和らいだ。
「楠上さんがわらび餅を差し入れしてくださったんです。今、持ってきますね!」
嬉しそうに立ち上がると、先ほどまでの疲労など忘れたかのようにぱたぱたと駆け出していく。
その背中を見送りながら、口元には普段は見せない笑みが浮かんだ。
程なくして、盆に湯気の立つ湯呑みと、涼しげな硝子鉢に盛られたわらび餅をのせて戻ってくる。
ふわりと漂う黒蜜の甘やかな香り。
文緒が差し出すと、空黎は箸を取ってひと口すくう。透明なわらび餅がぷるりと揺れて、口に含めばすぐにとろけ、上品な甘みが広がった。
「……なるほど、美味いな」
「ふふ。気に入っていただけました?」
「甘すぎないのがいい」
少し早めの、八つ時の休息を楽しむ。
空黎が茶を口にして、ふと文緒を見やった。
「……そういえば。あの手紙は、読んだのか」
「いえ、まだなんです」
膝の上で両手を重ね、ぎゅっと力が入った。
先日、楠上が蒼月直貴のことを明かしてくれた時のことが蘇る。
――本條家当主の寛明様から私に託されたものです。もし文緒様がその名に辿り着いたときは、迷わず渡すようにと。
その言葉とともに楠上から差し出された一通の封書は、いまだ封は切らぬまま自室にある文机の引き出しにしまいこんでいた。
「今は……呪術を会得することに集中したいんです。そうすれば、その時にちゃんと蒼月直貴という人に向き合えるような気がして」
空黎は黙って文緒を見つめる。
「君がそう決めたのなら、それが一番正しい」
顔を上げた文緒と、かすかな琥珀の瞳が重なる。
本当の父の手紙をまだ読んでいないこと、その理由――自分でも答えを探しきれていなかった。
でも、その一言に、胸の奥の強張りがふっと解けていく。
「……ありがとうございます」
顔を上げると、空黎はただ静かに頷いた。
その横顔に触れたやわらかな光が、不思議なほど安心をもたらしてくれる。
読むことも読まないことにも、迷いはまだ消えてはいない。
でも今はこれでいいんだと――そう思えた。




