第三十六話 地下書庫の秘密(三)
「蒼月直貴はそこで命を落としたのか」
「いえ……正確にはその二月後でした」
戦いのあと、蒼月直貴は忽然と姿を消す。事態の収拾がつかない中で、自身が渦中の存在であることを察して身を隠したのかもしれなかった。
しかしある日突然、直貴はこの旧邸に戻ってきた。
「直貴様は目に見えて衰えておられました……今思えばですが、呪病に冒されていたのかもしれません。瞳が灰色に濁り、酷く痩せておられましたから」
そこで楠上は一度長く息をつき、文緒をまっすぐに見据える。
「その時直貴様が抱えておられたのが、赤子だった文緒様なのです」
(……私を、?)
当然ながら自分にはその時の記憶はない。けれど、その場面を思い描くと温かくも切ないものが満ちた。
「……あの、母のことは……私の実の母については何かご存じではありませんか?」
なぜ蒼月直貴は、赤子だった自分を連れて綾羅城家の旧邸に戻ってきたのだろう。実の母も、すでに亡くなってしまっていたのだろうか。
文緒の問いに楠上は一瞬目を伏せて、やや言いづらそうに首を振った。
「……それが、どのような方だったのかは分からないのです」
交わす会話の端々やふとした雰囲気の変化から、直貴が心を寄せる誰かがいるようだ、という気配は感じていた。けれど、まさか子どもをもうけていたとは、楠上も青天の霹靂だったという。
自分はおそらくもう長くはない。だからせめて、この子を信頼できる人の元に託したい――それが、直貴の最期の願いだった。
「どこか遠く離れた土地へ養子に出すか、尼寺に預けるか…様々な伝手を模索しましたが……可能ならば私が生きている間は近くで成長を見守ることができればと――本條家にご相談を申し上げました」
そこで楠上は静かに微笑み、語調を落とした。
「……これまでお伝えせずにおりましたこと、誠に申し訳ございません」
深々と頭を下げる楠上に文緒は慌てて首を振った。
「そんな…っ、謝らないでください。私こそ何も知らなくて」
衝撃を受けなかったと言えば嘘になる。けれど、責める気持ちは起こらなかった。
自分の出生にはいくつもの複雑な事情が絡んでいることは、ここまでの話で理解できた。
だからこそ、本條家の両親も楠上も、長い間口を噤んでいた――いや、守り抜いてくれていたのだ。
「この前、この地下書庫で手帳を見つけたんです」
文緒が手に持っていた手帳を見せると、楠上は、あぁと目を細めた。
「覚えています。ここに戻られてからはこの部屋に籠られて……最後まで自身の呪術研究の功績を残しておられました」
壁際に置かれた文机、黄ばんだ紙束、筆立て。
時を閉じ込めたかのような部屋の隅々へと、楠上は懐かしむように視線を巡らせる。
「そうですか…やはり、文緒様が見つけられたのですね」
静かに微笑む楠上に、空黎はほんの少し反応を見せた。
「やはり、とは?」
「直貴様は…自身が構築した強大な力を、他に利用されることを恐れておられました」
玄骸の大蛇を退けるほどの力。
その力を持つ己の存在が『異端』と見なされていること。
直貴は自分の亡き後のことを最も危惧していた。
「月天術、か」
空黎の呟きに、文緒は手の中の手帳に目を落とす。
月天術の術式は途中から消され、残りの頁は破り取られていた。書いた後に消したあの痕跡は、直貴の葛藤の跡だったのかもしれない。
月華は浄化の光 月天は守護の盾
輝夜は奇跡の矛 ただし魂の代償を以て成る――
(蒼月直貴は…私の父は玄骸の大蛇との戦いで月天術を使って、代償として命を落とした…?)
ふいに思い当たった可能性に、文緒の心臓が激しく脈打つ。
「この地下書庫に来るまでにあった結界符も、すべて蒼月直貴が仕掛けたものというわけか」
空黎が納得したように小さく頷いた。
「え?」
「あれは君の霊力にだけ反応するように仕掛けられていた。裏を返せば、君以外の人間にはこの地下書庫の存在を気づかせないようにしていたということだ」
「結界符?そのようなものが…」
楠上自身も少なからず呪術を扱える。呪病に罹り霊力のない空黎のため、自室に結界を張ったのも彼だ。その楠上でさえ、何度もこの旧邸に出入りしながら気づけなかった。
「まるでこの場所へと導くように術式の紋が刻まれていた。古い術式な上に、その上から何層も別の術式で覆い隠されていた。複雑すぎて並の呪術師では見抜けない」
文緒は思わず息を詰める。
実の父である直貴が自分を導くために。でもそれならなぜ、と同時に疑問が湧いた。
「それほど他の手に渡るのを恐れていたのなら、どうして完全に破棄しなかったんでしょうか?こうして手掛かりを残したりして…」
「君に、託したかったんじゃないか」
意外なほど温かな声が、部屋の空気を震わせる。
「いずれまた玄骸の大蛇が現れることを危惧していたのかもしれない。一度封印をしても、時の経過とともに解かれ再び現れる。呪術師と妖の戦いは、その繰り返しの歴史だ」
「でも、現れるのは数百年に一度、なんですよね?」
「伝承ではそうだが…」
空黎はそこで何か思案するように、不自然に言葉を切った。その一瞬の間に、文緒の胸にひやりとしたものが広がっていく。
「実際に蒼月直貴がどのように玄骸の大蛇を退けたのか、誰も知らない。封印したのか、それとも別の方法なのか」
色を取り戻しつつある空黎の琥珀色の瞳が、この時はわずかに陰を帯びた。
「――楠上。文緒の出生を知る者は、誰がいる?」
その声は静かだが、瞳の奥に鋭い光が宿っていた。
「玄骸の大蛇との戦いが十八年前のことなら、蒼月直貴の名も彼が持つ力も父は知っていたはずだ。その娘である文緒が、俺の元へ嫁ぐ――これは本当に偶然か?」
この婚姻自体が意図的であったかもしれない。
思いもよらない言葉に、文緒は目を見開いた。これまで考えてもいないことだったから。
「この婚姻そのものが、初めから仕組まれていたのか?」
疑念を孕んだ問いに、楠上は静かに目を伏せてから首を振った。
「現当主の千影様は、文緒様の出生についてはご存じないはずです」
蒼月直貴本人、本條家の当主である本條寛明、そして楠上。
その三者の間だけの取り交わしだったと、楠上は強調した。
「空黎様との婚姻の話が本條家に持ち込まれたのは、他の家々がすべて断った後のことです。偶然の巡り合わせにすぎません」
空黎はそうか、と低く呟くも頷くことはなかった。
その眼差しにはまだ拭いきれない陰りが宿っているように、文緒には映った。
「このことはくれぐれも内密にしたい。父のことだ。もしその事実を知れば、文緒の力を利用しようとするかもしれない」
玄骸の大蛇を退けるほどの力。
その力の一端が彼女に眠っていると知ればどうなるか。
突然降りかかった秘密の重さに、胸の奥に冷たいものが差し込む。
その刹那、書庫のどこかから、書物が崩れて倒れる音が響いた。
その音は文緒の中に渦巻く不安を増長させるようで、思わず身を強張らせた。




