第三十五話 地下書庫の秘密(二)
「楠上さん…今のお話は本当なのですか?」
蒼月家の血を引く蒼月直貴という呪術師が、文緒の実の父親――にわかに信じられない。けれど、楠上が嘘をつくような人柄ではないし、また嘘をつく理由もないこともよく理解していた。
「このお話をするには、まず直貴様がどういうお方だったのかをお伝えしなければなりません」
一瞬だけ目を伏せた楠上は、こちらへと言って二人を促す。
そして書庫にある一つの本棚を強く押すと、鈍い音を立てて動いた。まるでからくり扉のように本棚が動くと、その奥に六畳ほどの部屋があった。
(これは、隠し部屋…?)
壁際に文机と小さな和箪笥が置かれているだけの部屋。
まさか地下書庫のさらに奥に、こんな空間が広がっているとは思わなかった。空黎も驚きで言葉を失っている。
「ここは、直貴様が使われていたお部屋です」
「どういうことだ…?なぜここに?」
「先ほど申しました通り、直貴様は蒼月家の先代当主のご落胤です。しかし呪術においては、その才は比類なきものでした」
その言葉に、文緒は手帳に書かれていたたくさんの術式や図式と、『かなり力のある呪術師のものだ』と空黎が言っていたことを思い出す。
「直貴様はその出自から……蒼月家からは正統な後継と見なされず、かなり不遇の扱いだったと聞いております。その折、綾羅城家の先代――空黎様の祖父君が彼の素質を見抜きました。そして……秘密裏にこの旧邸へ迎えたのです」
空黎がわずかに目を細める。
「……祖父が?」
「ええ。あの方は、血筋よりも呪術師としての才覚を重視される方でした。類い稀なる才能を正しく磨くことこそ、呪術界のためになると」
家々に伝承する呪術を継承していくことを重んじる呪術界において、その考え方は異端の部類に入る。もし明らかになれば、蒼月家との確執にも繋がりかねない行いだ。
「ですから、綾羅城家でもそのことを知るのは、現当主の千影様などごく一部の方に限られます。特に地下書庫にあるこの秘密の部屋については、どなたもご存じないでしょう」
よってこのことは秘匿とされ、直貴はずっとからくり扉の奥の部屋で過ごし、独自の呪術を極めることに没頭した。
「直貴様が旧邸で修行される間、世話係を務めたのが私でした」
楠上の目が、在りし日をふと遠くを眺めるように細められる。
その姿を見つめながら、文緒は指を組んで躊躇うように口を開いた。
「楠上さん、その蒼月直貴という人は今どこにいるのでしょうか?どうして、私は本條家に?」
「直貴様は……文緒様がお生まれになられた後、亡くなられました」
――亡くなった。
薄々予感はしていた。
けれど、はっきりと告げられた瞬間、息が詰まった。もう会うことは叶わない──その現実が、遅れて心を締めつける。
「なぜ亡くなった?病か?」
「それは……玄骸の大蛇との戦いで、命を落とされたのです」
「玄骸の大蛇だと――?」
文緒は、傍らに立つ空黎の空気が変わったのをはっきりと感じた。思わずその顔を見上げると、鋭さを増した琥珀色の瞳と目が合う。
「数百年に一度目覚めるといわれる最凶の妖だ。その体から放たれる瘴気は、呪術をも無効化すると言われている」
玄骸の大蛇――百尋を超える漆黒の鱗が蒼空を覆い、紅玉のごとく輝く眼光は結界が砕き、吐き出す瘴気が大地を裂く、といわれる妖。
確かな記述の残る書物はほとんどなく口伝でしか語られない。
しかし、ひとたび姿を現せば帝都はおろか、国土の半分が壊滅するほどの被害をもたらすとされ、呪術師にとって最も忌むべき存在。
「玄骸の大蛇の力は強大なものだったそうです。戦場に立った呪術師のほとんどが、力を発する前に術式をかき消され赤子同然であったと」
「蒼月直貴を除いて、か」
空黎の言葉に楠上は深く頷いた。
呪術師が妖と対峙した際にまず行うのが、結界を張ることだ。外界と切り離し周囲への被害を最小限にするための基本動作といっていい。
楠上もその日、結界が張られていく直前、確かにその目で見た。
無数の楼閣を飲み込むかのような黒い顎が、帝都の灯を喰らおうとする様を。
「あの戦いがどう決着したのか、誰も見た者はいないのです。他の呪術師はすべて歯が立たず、最悪を想定して帝都防衛に散開しました。帝の住まう御所だけは何においても死守しなければなりませんでしたから」
文緒は息をのんだ。初めて知る、十八年前の帝都の危機。
そして文緒だけではなく呪術師である空黎さえも、信じられないといった面持ちで楠上に迫った。
「そんな話聞いたことがない。それほどの妖との戦いなら記録に残されていないはずがないだろう」
「蒼月家が――いえ、呪術界全体がすべてを隠蔽したのです」
帝都の三大呪術家の一角。
格式と伝統を守るがゆえに、一切の異端を許さない家。
ほぼすべての呪術師が太刀打ちできない中、唯一力を行使できたのが直貴だった。そのことを、蒼月家は認めるわけにはいかなかった。
「直貴様は正式な跡継ぎではなく、その時点では蒼月家との縁を切られていました。蒼月家としては何としてでも、表に出すべきではない者を英雄にするわけにはいかなかったのでしょう」
玄骸の大蛇の出現は、呪術界にとって大きな衝撃だった。
伝承こそ残っていたが、皆どこかで伝説の産物、もしくは天災や災害が転じて解釈した物だろうと考えていたからだ。
「あれを退けられたのは、当時の直貴様ただお一人。しかし、その事実は玄骸の大蛇の出現と同等に恐れられました」
もし噂が広まれば、呪術界は《《あの異端》》を頼るようになり、家同士の均衡は崩れ、争いが避けられなくなる―――
結果として隠蔽の判断を下したのは呪術界全体――そして、帝都の『《《中枢》》』だった。
「その決定に、当時の各家は否応なく足並みを揃えるしかありませんでした。綾羅城家もその例外ではありません」
「つまり、蒼月直貴の名や功績も消し去ることは中枢の命だったと?」
何かを押し殺すような、奥に熱を孕んでいるような声だった。
短い沈黙ののち、楠上はわずかに頷いた。
(帝都の中枢……)
その言葉に、棘のような引っ掛かりを覚える。
噂だけは耳にしたことがあった。
帝都の御所を守護する三大家でさえ軽々しく口にすることのない、呪術界における権力の核。具体的な姿も、どこにあるのかも、誰がその座に就いているのかも知られていない。
(そんな存在が、本当に……?)
文緒の視線に気づいた空黎が、文緒を見下ろした。
「文緒は…知らなくていい」
その表情の鋭さに、背筋に冷たいものが走る。
けれどそれはほんの刹那のことで、次に瞬きをしたときには落ち着いた表情へと戻っていた。




