第三十四話 地下書庫の秘密(一)
「そろそろ部屋へ戻るか」
空黎の言葉に、文緒は頷いた。
二人は庭を抜けて石畳を踏みしめながら歩く。軒下を渡る風が、さっきまで肌にまとわりついていた初夏の熱気をさらっていった。
板戸をくぐると外の眩しさから一転、廊下は静かで木の香りとわずかな古びた匂いが鼻をくすぐった。足音を響かせながら廊下を進んでいく途中、ふいに空黎が口を開いた。
「そういえば、地下書庫はどうやって見つけたんだ?」
文緒は一瞬まばたきし、記憶を辿るように視線を落とす。
「それは、本当に偶然なんです。ちょうどここの廊下の先で誰かが通ったような気がして…もちろん誰もいなかったんですけど、気づいたら行き止まりの床の下に扉があって、それが地下に続いていたんです」
口にしているうちに、自分でも妙なことを言っていると思った。けれど、あのとき確かに《《何かの存在》》を文緒は感じていた。
「あの嵐の夜以来、そういうことが増えたような気がします。景色が違って見えるというか、ところどころに気配みたいなものを感じるというか」
「なるほどな。それも――君の霊力が、すでに目を覚まし始めていた証拠かもしれない」
すると空黎が、少し声を落として言った。
「地下書庫へ一緒に行ってみないか」
「え?」
「この旧邸で過ごしたのは子どもの時分までで、地下書庫の存在は詳しくは知らない。だから純粋に興味がある」
そういえば、呪病に罹る前は書を読むのが日課だったと言っていた。
「それに、その何かが君の霊力に反応したのだとしたら、君が自分の力を掴む手がかりになるかもしれない」
文緒は驚きと期待の入り混じった瞳で彼を見上げ、ゆっくりと頷いた。
「はい、私ももう一度確かめてみたいです」
旧邸の廊下は、しんとした空気が満ちていた。
文緒がすべての雨戸を開け放つようになってから外の陽光が差し込むようになったが、それでも届かない屋敷の奥は薄暗くひんやりとした空気に包まれている。
空黎は歩みを進めながら、ふと廊下の柱に目を止めた。
――これは。
木目に溶け込むように刻まれた、細く褪せた紋。
それは経年でかすれてなお、わずかな霊気を放つ古い術式だった。
どうして今まで気づかなかったのかと思考して、自身の霊力が枯れていたせいだと悟る。だが今は、かすかとはいえ確かに視える。
「薄い術式だが、他にも何層か重ねてあるな」
「でもどうして…罠のようなものですか?」
「いや、これはどちらかといえば秘匿の結界の類だ」
空黎が壁に触れて意識を集中させると、術式が淡く脈動して、表層の紋に重なるように別の符形が浮かび上がった。
淡い光はすぐに消えたが、その残滓は確かに古の霊力を帯びている。
「やはりこれは結界符だ。おそらくある特定の条件下でしか発現しないようにするためのものだ」
「ある特定の、条件…?」
「たとえば、君の霊力にだけ反応するようにしているのかもしれない。だとしたら、君がこの旧邸内で何かを感じ取ったのも、導かれるように地下書庫にたどり着いたのも説明がつく」
文緒の力が共鳴しているのだとすれば、この術式群が呼び水となって働いた可能性がある。空黎の言葉に文緒は思わず手帳を持つ手に力が入った。
「そんな…誰がそれを?」
「分からない。でも、おそらくその答えは地下書庫にある」
そうしていくつかの角を曲がった先、廊下の突き当たりにやってきた。
板張りの床の前で、文緒が足を止める。
「ここです。この床が扉になっていて……下に階段が続いているんです」
そう言うと、文緒は迷いなく床板の端に手をかけた。
「確かこのあたりに――」
カチリ、という乾いた音とともに床が持ち上がると、隙間から冷たい空気が吹き上がってきた。
そこには、闇へと沈む木製の階段が口を開けていた。
「……本当に、あるとはな」
呟いた空黎の声に、文緒が小さく笑む。
「私も、最初に来た時は夢じゃないかと思いました」
板張りの階段を、空黎が先に一段ずつ慎重に降りていく。
やがて最後の一段を下りたところで文緒へと手を伸ばすと、見上げた先で、文緒が戸惑ったように瞬きをした。
「ゆっくりでいい。段差がある」
「……はい」
空黎の手に支えられながら、文緒は慎重に階段を降りる。
そこは、埃と紙の匂いに満ちた空間だった。
何列もの木製の本棚が並ぶ小さな書庫。重ねられた時の層が、空気に溶け込んでいる。
「初めて来た時と変わってません」
「あの手帳があったのはどの辺りだ?」
「えっと……あの向こうの棚の、二段目あたりです」
足音が木の床を静かに打ち、そのたびに薄く舞い上がった埃が光の筋に揺れる。空黎は歩きながらも書棚に目を走らせていた。
「何を探していらっしゃるんですか?」
「この手帳を読んだときから、ずっと気になっていたことがある」
空黎は歩みを止め、文緒を見た。
「この手帳に記されていた術式だ。持ち主が編み出した独自のものだろうが、綾羅城家の系譜とはまったく異なっていた」
「あ、昨日も言ってましたね。すべてが高度で並の呪術師には扱えないって」
「ああ。そしてもう一つ……この術式群には、月や星といった天文学が深く関わっていた。呪術家の中で、そこまで天文に精通している家といえば……一つしかない」
空黎の声が、ひときわ低く落ちる。
「それってもしかして……」
「――蒼月家だ」
その時だった。
カタン、と文緒たちが歩いてきた方向から音が響いた。
誰かが同じように階段を降りてきたのだ。
文緒の肩がビクリと跳ね、空黎も即座に反応する。
二人は顔を見合わせて息をひそめた。
「下がれ」
低く短く告げると、空黎は素早く文緒の前へと身を滑り込ませる。
右手で文緒の腕を背後にかばい、左手はいつでも印を結べるように構えた。
やがて、書棚の間からゆっくりと人影が現れた。
白髪混じりの髪を丁寧に後ろで撫でつけたその姿に、見覚えがあった。
「楠上さん……?」
文緒の声に、男は静かに歩み出て頭を下げる。
「ご無事で何よりです、文緒様。空黎様も」
口調はいつも通り穏やかだが、この場に彼が現れた理由が偶然でないことは明らかだった。
「お二人とも、ここまで辿り着かれたのですね」
ふわりと微笑みながら、楠上の視線が空黎の手元――手帳に落ちる。
「その手帳を手にされたなら……そろそろ時かと思いました」
「どういう意味だ?なぜ楠上がこの手帳のことを知っている?」
「それは――蒼月直貴様が遺されたものです」
「……蒼月……直貴……?」
空黎が名をなぞるように繰り返す。
その名前に空黎も文緒も心当たりはない。
ただ『蒼月』という家名が先ほどの空黎の話と符合していて、文緒の胸にさざ波のような波紋がじわじわと広がっていく。
「直貴様は、蒼月家の先代当主の落胤にして――」
楠上はわずかに息を整え、まっすぐに文緒を見据えた。
「文緒様の……実の父君でございます」
書庫に落ちた沈黙は、まるで時を止めたかのように深かった。




