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嫁いだのは、余命一年の旦那様でした  作者: 綾瀬アヲ@2月初書籍発売


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第三十三話 意識の具現化

 文緒と空黎が歩を進めた先、庭の隅にぽつんと置かれた木桶があり、空黎がそれをおもむろに拾い上げる。長らくそこに置かれていたのか、古びた桶の底はひび割れていた。


 空黎は桶の内側を指しながら、穏やかな声で言う。


「ここに水を注いでも底から流れ出ていく。君の霊力もそれと同じ状態だ。溜めるための器を持たなければ自身を蝕むだけになる。だから制御が必要だ」

「制御ですか……」

「まずは、自分の中に力があることを感じること。目を閉じて、深く呼吸してみろ」


 空黎の言葉に文緒はこくりと頷き、目を閉じた。

 静かな庭の風が頬を撫でていく。


 深く息を吸って、静かに長く吐く。それを何度か繰り返しながら、意識を自分の内側へと向けていくと、体の隅々まで意識が行き渡る気がする。

 けれど、嵐の夜や昨夜感じたような自分から湧き上がるような熱も、波のようなうねりもない。それだけ待ってみても、それらしい感覚を掴むことはできなかった。


「……すみません、うまくできなくて」


 がっかりされるだろうか。目を開けると、目の前に立つ空黎と視線が合った。その目は意外にも優しい。


「初めからできる人間は少ない。霊力は、ただそうしているだけなら輪郭も重さもない。それを捉えるのは慣れるまで訓練がいる」


 空黎はしばし文緒の様子を見つめてから、庭の一角へと向けた。

 その先には、二人で一緒に見上げた梅の木がある。


「呪術の基本は、意識の具現化にある」


 文緒が首を傾げるのを横目に、空黎は枝の一本に手を伸ばす。


「……え!?」


 文緒が目を凝らすと、そこには青みがかった小ぶりな梅の実がなっていた。たった今までなかったはずなのに、確かに葉の間で揺れている。


 空黎はそれを指先でつまみ軽く引く。

 枝はたしかに揺れ、その動きはまるで本物の果実のようだった。


「ほら」


 目の前に差し出されたそれをおそるおそる覗き込むと、かすかに青い匂いも漂ってくる。


「……え、本物……?」

「な?果肉があまりなくて、食用には向かなそうだろう」

「はい確かに……」


 そう言って、文緒がもう一度梅の実を見ようとしたその瞬間だった。


 ふっ、と。

 空黎の手の中から、それはまるで霧のように消えた。


「っ……!?」


 驚きに目を見開いた文緒に、空黎は静かに言う。


「これが呪術による具現だ。意識したものを霊力で形にすることで、ないものを在るように見せることができる」


 文緒は思わず、空黎の手のひらを見つめた。さっきまで確かにそこにあった存在が、今はもうどこにもない。


「……すごいです」


 文緒が育った本條家では呪術を使える人間はいない。間近でその力を見たのは初めてだった。


「呪術はいわば意志の形だ。逆に、心が乱れれば術もまた崩れる」


 空黎の言葉に文緒は頷いた。

 呪術は、霊力と心とが深く結びついている。それと同時に、呪病が呪術師を蝕む理由も分かった気がした。


『呪病はその人間の本質を変えてしまう。単に身体の変化や衰えだけじゃない。霊力を蝕み、心を凍らせる病だ』


 以前、雪月花はそう言っていた。


 心が呪術の核を成すのだとしたら、それを凍らせてしまう呪病は呪術そのものを殺す病。

 呪術師にとって致命的なそれは、命を削られるよりも深い絶望をもたらすのかもしれない。そして余計に心と体を弱らせていく。


 文緒はそっと視線を上げると、風に揺れる梅の木を見上げる空黎の横顔が見えた。


 ここに来たばかりの頃、空黎はこう言っていた。


『梅の花が一番嫌いだ』


 三年前の不吉な何かを思い出させるせいだろう。

 そう呟いていた彼が、今はこうして庭に出て、その木を穏やかな瞳で見上げている。


 呪病によって凍りついていた心が、ほんの少しずつ、溶けはじめているのだろうか。そうだったらいいと、文緒はそっと思う。


 そして、自分の力が少しでも役に立つのなら――


「どうかしたか?」


 視線に気づいて振り返った空黎と目が合う。文緒は小さな笑みとともに首を振った。


「いえ何でも…あの、もう一度力の制御の仕方を教えてください」


 気がつけば、日はかなり高くなっていた。


「……もう一度、やってみます」


 もう何度目か、文緒は再び集中する。空黎に教えられた通りに順を追って、意識を空気の先に伸ばすように……けれど、何も起こらない。力の気配も反応も感じられない。


「……駄目ですね」


 苦笑いを浮かべてそう言った文緒に、空黎は首を横に振った。


「悪くない。気配を探る感覚は前より良くなっている」

「でも、全然形にできません。まだ何もはっきりと掴めないままで…」

「焦るな、力は急には馴染まないものだ。今の君に必要なのは触れようとし続けること。それだけでいい」


 その言葉に文緒が黙って頷くと、空黎はふと視線を向け、規則的に上下する文緒の肩に目をとめた。眉根がわずかに寄る。


「……だいぶ息が切れている。今日はここまでにしたほうがいい」


 言われると、自分の呼吸が浅くなっていた。額にはじんわりと汗が滲んでいる。きっと暑さのせいだけじゃない――集中していたせいで、身体の疲れに気づくのが遅れていた。


「でも…まだもう少しだけなら、」

「駄目だ。そんなになるまで気づかないほど消耗しているだろう」


 すべて見透かされたようで、文緒は肩を落とす。


「……空黎様には、隠し事はできませんね」

「するつもりだったのか?」


 文緒がこぼした言葉に少しだけ口元を緩めると、空黎は彼女の首にかかるペンダントに目を向けた。


「それを貸してもらえるか?」

「え?はい…」


 文緒がそっと紐を外して差し出したそれを受け取ると、手のひらの上にのせて軽く指を当てる。


「君の霊力と呪術の媒体となっているこの石に仮封(かふう)を施す」

「仮封……?」

「君の霊力はまだ不安定だ。このままでは君自身を傷つけかねない。だから、一時的に君の霊力が流れ出たままにならないよう、ここで制御する」


 空黎の説明に、文緒は目を瞬く。


「そんなことができるんですか……?」

「綾羅城家の呪術は封印術が本業だからな」

「……あの、大丈夫なんですか。空黎様もまだ完全には……」


 つい、言葉にしてしまった。

 呪病に蝕まれた彼が、たとえ少し回復してきているとはいえ、無理をしているのではないかと。


「術の型だけで作用するし詠唱も要らない。今なら、このくらいは扱える」


 静かに仮封の呪術が展開される。空黎が指先から石へと何かを送り込むように添えると、同時に文緒の中にある何かが、ゆっくり鎮まっていくのを感じた。

 まるで、荒ぶる猛獣を撫でて眠らせるような――あるいは、波立つ水面がすうっと凪いでいくような感覚。


「君の中の力は、いずれは君自身で制御できるようになる。その時までの仮だ」

「ありがとうございます」


 気がつくと、体がとても楽になっていた。


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