第三十二話 文緒の中に眠るもの(二)
空黎は印を解く。
すると、石の反応も瞬く間に収まった。
「君の中には、霊力がある。今まで眠っていたそれが、嵐の夜をきっかけに目を覚ましたんだ」
「でも、どうして…、」
「それは昨夜、君が教えてくれただろう?」
空黎の言葉に息をのんだ。
あの嵐の夜に自分がしたことといえば、一つしかない。
「……祈りました。空黎様の苦しみが和らいでほしいと」
空黎は少しだけ表情を緩ませてから手帳に目を落とすと、文字を辿るように指を滑らせていく。
「『月天術は心に宿る光明也』これはおそらく『祈り』のことだ。君の強い祈りを受けて、石が媒体となって君の中に眠っていた力が目覚めた」
――もし本当に困ったことがあったら、この石に祈りなさい。
(まさか、それが力の発現のきっかけ――?)
動揺する文緒とは対照的に、空黎の琥珀色の瞳の奥には明らかな確信が宿っている。
「この頁の記述には『月華は浄化の光』とある。あの嵐の夜を境に、俺の中の呪病がもたらす苦痛が鎮まった。呪病によって起きていた身体的変化も徐々に改善している。雪月花すら驚くほどに、短期間でだ」
死霊のように色のなかった肌も、鈍い灰色に濁った目も。
そして何より、術式を発動できるほどに霊力が戻ってきている。それはまさしく《《浄化》》という言葉が当てはまった。
「あの日、君が強く祈ったことで君の力が解放されて、月天術のうちの一つ、月華が発動した。それが浄化の力として俺の中の呪病の核に触れ、作用している可能性がある」
急激な回復には文緒が関わっているのではないか。
空黎は一つの可能性として考えてはいたが、確証がなかった。けれど、昨夜の出来事で確信に変わった。これは偶然ではないと。
空黎から語られる真実を、文緒はただ受け止めるだけで精いっぱいだった。
(本当にそんなことが…)
一度気持ちを落ち着かせてから、自分の身に起きていたことと一つずつ照らし合わせていく。
強く祈った時に自分の中から湧き上がった力――それが、空黎の手を通して流れ込んでいった感覚は今もはっきりと思い出せる。
(それに…このペンダントの石…)
文緒は留め金を外して石を両手で包み込む。
綾羅城家に嫁ぐ日、出立前に父に渡された時にはなかった『赤い三日月』の文様。
空黎の言うようにこの石が媒体ならば、『月華』が発現したことによってこの文様が浮かび上がったのかもしれない。
「君は自分に霊力があることに気づかず、あの日以降もずっと自覚はないまま『月華』を発動させ続けた状態だったんだ。おかげで俺は目を瞠る速度で回復していったが、君は霊力を奪われ消耗し続けていた――それが、君が倒れた理由だ」
確かに、思い当たる節はあった。
ふと眩暈を覚えたり、朝起きる時に妙な疲労感があったり。それが寝不足なのではなく、無意識に力を消耗していたからだとしたら。
不思議と、すべてが腑に落ちた。
「君は自分に霊力がある自覚がなく、制御する術を知らない。今のままでは、君の身体がもたなくなる」
文緒は、思わず膝の上で組んだ手を強く握りしめた。
空黎の仮説の通りならば、それは不治の病とされる呪病にも影響を及ぼす力だということになる。自分の中にそんな特別なものがあったなんて、信じてしまっていいのか分からない。
文緒が育った本條家は、霊力を持たない家系だ。
呪術の歴史には通じていても実践とは無縁で、代々文献の整理や記録の補佐を生業としてきた。
「本條家では、呪術を使える人はいません。父も兄も……でも、」
「あぁ……君は、本條家に引き取られたんだったな」
それ以上言葉を続けなくても、言わんとすることはお互いに理解していた。
育った本條家の血筋には呪術の力はなくても、本当の生みの親なら――?
文緒は生みの親について何も知らされていない。
まだ生後間もない赤ん坊の時分に、本條家の門の前に置かれていた――とだけ聞かされていた。
(…お父様とお母様は、どこまで知っているのだろう…?)
父は『困った時にはこれに祈れ』と言った。
綾羅城家に嫁ぐ直前に、まるで力の発現の誘因になるようなことを伝えたのには、理由があるような気がする。
「それよりも、今は君の霊力を制御する必要がある」
そんな答えの出ない思考に沈みかけた時、空黎の声が耳を打った。
「制御って、いったいどうすれば?」
「俺が教える」
その一言に、はっと顔を上げる。
窓の外へ視線を向けた空黎の横顔が、朝の光にふわりと照らされた。
「外に出よう」
二人が連れ立ってやってきたのは、旧邸の外庭だった。
「空黎様は外を歩いて大丈夫なんですか?」
「あぁ、君の力のおかげで体力が戻ってきているからな」
朝の日差しに照らされて、青々とした木々の葉が風に揺れている。
初めて訪れた頃は荒れ放題だったこの庭を、楠上とともに雑草を抜き、苔むした飛び石を磨いて、伸びすぎた枝を剪定した。
そうやって少しずつ手入れしたおかげで、だいぶ見栄えが良くなっている。
庭の一角には、立派な梅の木がある。
ちょうど空黎の部屋からも見えるこの木は、すでに枝葉を豊かに広げていたけれど、どこにも実の姿は見えなかった。
「梅の実はできてないですね」
見上げながらぽつりと呟くと、隣りを歩いていた空黎も足を止めた。
「これは花梅だからな。もし実がついたとしても、たいして美味いものにはならないはずだ」
(あ、そうなんだ……)
「もし実が取れたら、梅干しや甘露煮にしてみたかったんですけど」
心なしか残念そうな表情を浮かべた彼女に、空黎がふと視線を向けた。
「この庭を見てそんなことを考えていたのか?」
「…!それはっ、枝ぶりがとても立派だったのでてっきり実もなるのかと…」
咄嗟に言い訳のように口走ると、空黎の口元がふっと緩んだ。
──笑っている。
厳しく整った顔立ちがほどけるように和らいで、見惚れてしまった。
ほんの一瞬だけ柔らかな空気がふたりの間を流れていた。
ザァ…、と風が一度強く吹き抜ける。
「それなら今度、楠上でも青梅を買ってきてもらうか」
「え?」
「君が漬けた梅干しや甘露煮を食べてみたい」
前までなら「君の好きにすればいい」と言われていたところを、自分が手をかけたものを食べてみたい、と言ってくれたこと。
その何気ない変化に、胸が締めつけられる。
「……その時は美味しく作りますね」
頬がほんのりと熱くなるのを悟られないように、文緒はそっと下を向いた。




