第三十一話 文緒の中に眠るもの(一)
翌朝、空黎が自室の障子を開けると、明るい日差しと湿った生ぬるい風が入り込んだ。
もう、夏がそこまで来ている。
差し込む日差しに思わず目をすがめながらも、初夏の空気を吸い込んだ。
呪病が発症してから二年が経つ。
それからは、坂を転げ落ちるように身体が蝕まれていった。このまま何もしなければ、あと一年ほどしかもたない。それが雪月花の見立てだった。
(おかしなものだな…)
思うように動かない体にも、ただ《《その時》》が来るのを待ち続ける日々にもうんざりしていたというのに。今は、こうしてまた一つ季節を越えられたのだと少しだけ安堵している自分がいる。
空黎は寝台に腰を下ろし、昨夜から指先に残り続けている感触を確かめる。
病の発症以来、空黎の霊力は枯渇寸前だった。
もう呪術を使うことはないとさえ思っていたのだが、昨夜、手帳に残されたわずかな術式の痕跡に触れた時、呼応するように力が戻ってきたのを確かに感じたのだ。
そして、文緒の持っていたあの石。
(やはり、あれが……)
そのとき、部屋の外から物音がして襖が開かれた。
「おはようございます」
振り返ると、昨夜より幾分か顔色が良くなった文緒がいた。その傍らにはいつものように御膳がある。
「まさか、その体調で朝餉を用意していたのか?」
「あ、はい。昨日は昼も夕もお出しできなかったので。せめて朝だけでもと思って」
立ち上がって御膳を運んでくる文緒に、空黎はわずかに眉をひそめる。
「病み上がりの身体で無理をするな」
「でも……空黎様が看病してくださったおかげで、だいぶよくなりましたし」
「そういう問題じゃない。また倒れでもしたらどうする」
びくりと文緒の肩が跳ねた。その表情にわずかな陰が差して、しゅんと目を伏せる。
「はい、すみません…」
「いや、謝る必要はない。君の料理はありがたい。ただ昨日のことがあるから気にしているだけで」
ともすればしどろもどろになりそうで、空黎は早口でまくし立てる。おそらくこの場に雪月花がいれば、堪えきれずに笑い出していたに違いない。
そんな想像を掻き消すように小さく咳払いをしてから、寝台から立ち上がると文緒のそばへと歩み寄った。
「熱はなさそうだな」
「……っ!?」
空黎の手が文緒の額に触れると、文緒の肩が大げさなくらいに跳ねた。
その衝撃で御膳の器同士が音を立てたのを見て、空黎は反射的に手を伸ばしかけたが、文緒がぎりぎりのところで支え直した。
「す、すみません……っ!」
息をのむような声。けれどそれ以上に目を引いたのは、ひどく赤く染まった文緒の顔だった。額に触った感じだと平熱のように思えたが、まだ熱が引ききっていないのかもしれない。
「やはり、まだ本調子じゃないんじゃないのか?」
空黎が少しだけ顔を寄せると、文緒は目を見開いたまま固まった。
「いえ、違います…っ」
「本当に?必要なら雪月花の往診を、」
「~~~大丈夫ですから!」
必死に否定する文緒の瞳が落ち着きなく揺れる。
視線が合わないように逸らされるのが気にかかるが、まだ本調子ではないのだろうと、空黎は文緒の手から御膳に受け取った。
「貸せ。もう倒れるなよ」
そう言い添えると、文緒はその場で俯いたまま耳まで真っ赤に染めていた。
床に二人分の御膳を置いて静かに腰を下ろす。少し遅れて文緒も対座するのを見届けてから、箸を手に取った。
文緒の作る料理はいつも丁寧だ。ほとんど何も口にできなかった、否する気がなかった時から、手間をかけ素材を活かした食べやすいものを用意してくれている。
箸を進めるごとに『食べること』の実感が広がっていく。
それを思い出させてくれたのは、間違いなく文緒の料理への愛情だ。柔らかく煮含められた冬瓜の煮物を口にしながら、そんなことを思った。
向かい合わせに座る二人の間に、しばしの沈黙が流れていた。
文緒は椀に口をつけながらも、どこか様子が落ち着かない。が、空黎はあえて言葉をかけずにその表情を一瞥するだけにとどめた。
やがて器の中身が空になった頃、空黎は箸を置いて文机から手帳を手に取った。文緒が地下書庫で見つけた綴じ帳だ。
「一晩預かって、これを読み返してみた」
膝の上でめくりながら、ある頁で手を止める。月天術に関する術式の断片と、謎めいた言葉が残された箇所だ。
「はい……」
頷く文緒の声は、戸惑いと不安が滲んでいる。
「この手帳に残された術式の痕跡、それを俺が顕現させようとした際に、君自身の内側から『力』が帯びていたこと――それらを踏まえて、俺なりの仮説を立てた」
昨夜の出来事をもう一度思い返しながら、空黎はゆっくりと続ける。
「君は、月天術を使えているんじゃないかと思う」
空黎の言葉に、文緒は呆然と目を瞬かせた。
「ま、待ってくださいっ!空黎様は昨夜も『私に呪術を使える力がある』とおっしゃっていましたが、私は本当に何も、」
何も知らないんです――文緒はそう続けようとしたが、できなかった。
胸元のペンダントの石が、熱を持って発光し始めたからだ。
「やっぱりな。月天術は、術式を発動するとその石が《《媒体》》となって、君の中の霊力と呼応するように設計されている」
文緒が驚いて空黎を見つめると、彼は手印を結んでいる。手帳の痕跡から月天術の術式を発動しているのだ。
「すべての始まりは――先日の、あの嵐の夜だ」




