第三十話 共鳴
「…そんなに、回復されていたんですね」
術が解けた後もまだ目を丸くしたままの文緒に、空黎は首を振った。
「いや、正直使えるとは思わなかった。霊力がほとんど尽きているのは分かっていたから、今までは試す気にもならなかった」
それでも、と空黎の目がこちらを向く。
「おかしなものだな。もう使えないと思っていた力が、君の前だと少しだけ戻ってくる気がした」
そう言って空黎は笑った。その瞳は、夜の薄暗い灯りの中でもはっきりと分かるくらいに輝いている。
驚きでも安堵でもなく、ただただ純粋な喜びに溢れていて――
(……空黎様は、呪術師なんだ)
そんな当たり前のことに、心が震える。
妖との戦いで呪病に蝕まれ、力を失って――それでも、こうしてまた光を与えることができるのも、呪術なのだと。
「これは……」
ふと、手帳に目を落とした空黎の指が止まった。
「月天術……?ここで記述は途切れているのか」
「はい。インクで滲んでいる部分は透かしたら少し読めたんですけど、その後は破られていて…」
文緒はそう言いながらも迷っていた。
『輝夜』は奇跡の矛。ただし魂の代償を以て成る――読み取れたその一文を、そのまま伝えてもいいものだろうか。
「少しだけ、術式が残っている」
「え?」
空黎が目を細めながら隣りの頁を指す。
「こっちの頁は白紙だがペンの跡がわずかに残っていて凹凸がある。筆圧で少し写ったのかもしれない」
言いながら指先をそっと走らせると、見えない筆跡を辿るように淡く光を帯びていく。まるで、彼の呪力に反応するかのように。
その時だった。
(どうして、今…?)
文緒は驚いて胸元から引っ張り出すと、胸元で揺れていたペンダントも同時に淡い光を放ち始めていた。
「それは?」
「家を出る時に父から渡されたものです。本当に困ったことがあったら、これに祈りなさいって…」
だからあの嵐の夜、祈った。苦しむ空黎を前に何もできない自分が、できる唯一のことだったから。
この石が光ったのは三度目だ。
一度目は、初めてこの石に祈った嵐の夜。
二度目は、地下の書庫でこの手帳を見つけた時。
「この筆跡は『月天術』の術式の一部だ」
空黎が筆跡をなぞりながら詠唱すると、張り詰めた空気が再び震えるのが分かった。呪の気配が、部屋の温度ごと変える。
そして次の瞬間、石に浮かび上がる文様――『赤い三日月』が強い閃光を放つ。
「っ……!」
(なに……これ……!?)
まるで体の奥から、何かが呼び起こされるような感覚。自分では制御しきれない《《何か》》が、全身を駆け巡っていく。
(――……)
立っているわけでもないのに、足元がぐらついた。
視界が、ぐらりと傾く。意識が、遠ざかる。
「文緒……っ、」
今にも崩れそうな文緒の手に、空黎の手が触れた刹那。
ばちり、と。
二人の間に奔ったのは、光でも風でもなく――あの嵐の夜の記憶だった。
(これは、あの時と同じだ)
死を覚悟するほどの苦しみの中、空黎の内に流れ込んできたあの光。
呪病の苦痛すら遠ざけるような安らぎは、確かに空黎を死の淵から引き戻すものだった。
「――やっぱり、あの光は君だったのか」
腕の中で浅く呼吸を繰り返す文緒を支えながら、空黎は彼女の胸元のペンダントに目を落とす。
そこに浮かぶ鮮やかな赤の三日月の文様は、先ほどとは比べものにならないほど強く、脈動するように光を放っている。
「君の中にも……呪術を司る力がある」
それは確信に近かった。
文緒の中には、霊力が眠っている。それが今――目覚めようとしている。
「わ、私が……?」
その言葉に、文緒は驚きで目を見開く。空黎に支えられながら、呆然と見つめることしかできない。
けれど、その胸の奥で何かが大きく震え脈打つのを感じた。
――何かが終わり、何かが動き出す。
夜の帳の向こうで、《《誰か》》が蠢き始める。
封じられていた力と記憶、そして強大な呪いが今――目を覚ます。




