第二十九話 最強呪術師の片鱗
目を閉じたままの文緒は、時おりうわごとのように何かを呟いては苦しげに眉をひそめる。そのたびに手を取ろうとして手が止まる。
己の手が、彼女を蝕むのではないか。
そんな疑念と葛藤が、空黎を躊躇わせていた。
結局上げかけた手を膝に戻してから、深く息をつく。
所在無げに部屋を見回して、ふと文机に置かれた一冊の革装の手帳に目をとめる。
「……あれは…?」
(そういえば今朝『旧邸の地下室のことを知っているか』と文緒が尋ねていた……)
理由ははっきりしなかったが、もしかしたらそこで見つけたものかもしれない。
空黎は立ち上がって手帳を手に取った。
見たところだいぶ古いもののようだ。小口や角の劣化が著しい。それでも文緒が丁寧に埃や汚れを拭ったのか、表紙は幾分か綺麗だった。
軽く表紙を撫でた時、かすかな衣擦れとともに文緒の指先が布団の上で動いた。揺れる灯の下でまぶたが震える。そして―――
「……空黎、さま……?」
まぶたの隙間から覗く瞳がゆっくりと焦点を結ぶと、空黎の姿を映す。
「文緒……っ、」
空黎はほぼ反射的にその名前を呼んだ。
その声に応えるように、文緒が小さく唇を動かす。
「……お食事は……召し上がられましたか……?」
紅潮した頬、汗が浮かぶ額とこめかみ。
それでも文緒は、弱々しいながらも笑みを浮かべた。
「……俺のことより、自分の心配をしろ」
空黎は深く息をついた。
他人のことなど気にしている場合ではないだろう。
けれどそれが彼女なのだ、と空黎は思い直す。
ここに来た日からいつもそうだった。どれだけ冷たくあしらわれようと、顔が煤で汚れようと、ずぶ濡れになろうと。自分のことは後回しで走り回って――一度だって逃げなかった。
そっと指先で、文緒の額にかかる髪を払う。
文緒は驚いたように目を丸くして、それからほんの少し溶けたような笑みを浮かべた。
「少し水を飲め」
水差しから湯飲みへと注いで、文緒の背を支えながらそっと口元へ運んだ。
「……ありがとうございます」
そう呟いた文緒は、照れながらもゆっくりと水を口に含む。まだ熱を持った体に冷たい水が染み渡っていく。ほっと息をついたあと、空黎の傍らに置かれた手帳に気づいた。
「あ、それ……」
「今朝言っていた地下室で見つけたものか?」
「そうです。申し訳ありません、勝手に持ち出してしまって……」
か細く声で告げた文緒に、空黎はほんの少しだけ眉をひそめた。
「君はここで暮らしているのだから気を使う必要はない。中を見ても?」
「はい」
文緒が頷くと、空黎は頁を静かにめくった。視線が一行一行を丁寧になぞり、やがて低く息をつく。
(綾羅城家のものとは術式が違う……)
呪術、といっても基本となる構築方法や理論はその家柄ごとに異なり、それぞれ特色がある。この手帳に記されている構造式を見ると、かなりの高等術式理論だ。
「…かなり力のある呪術師のものだな。並の呪術師が扱えるものじゃない。術式の構築も制御も…すべてが高度すぎる」
「そ、そんなにすごいものなんですか…?」
「あぁ…他の家の術式もある程度知っているが、これは完全に別の系譜だ。おそらくこの手帳の持ち主が独自に編み出した、まったく新しい術式体系だと思う」
空黎の指先に、一瞬わずかに淡い光が灯った。
呪力の発動の合図だ。
「説明するより見たほうが早い」
そう言って空黎は右手で印を結ぶ。
「九天玄理 符詞封印ノ結―――顕現せよ」
詠唱のあと、窓を開けていないにもかかわらず風が起こった。
そして複雑な術式図や文字たちが、まるで紙の上から剥がれるかのように次々と浮かび上がっていく。
(これは……)
目の前で触れられそうなほどの距離で浮遊しているそれらを、文緒は呆然と見つめる。
「この頁に書かれていた『朧』という術式だ。二次元のものをこうして視覚化させる呪術なんだろう。応用すれば妖との戦闘でも有利になる」
「読めるんですか……?」
「一部だけどな。封じられていた術式でも、構造さえ読み解ければ再現できる」
いとも簡単に説明する空黎の瞳は、琥珀色に輝いていた。
まるで本能が目を覚ましたかのような姿に、文緒は目を瞬く。
そこには、かつて最強と称された呪術師の片鱗が宿っていた。




