第二十七話 薄れゆく意識の中で
◇◇◇◇
翌朝の空は、薄曇りだった。
障子越しに差し込む柔らかな光の中、文緒はゆっくりと体を起こした。
(……少し、頭が重い)
熱はない。ただまぶたが重く、こめかみがじんわりと痛む。
ここ数日の間、文緒は体の不調を感じていた。
(寝不足……かな)
昨夜、手帳の内容を何度も読み返していたせいかもしれない。
消された文字、月天術、そして『代償』の言葉。考えれば考えるほど胸がざわめき、なかなか眠りにつけなかった。
けれど、朝餉は用意しなければならない。
空黎が前よりもさらに口にしてくれるようになった今、手を抜くわけにはいかなかった。
文緒は帯をきゅっと締め直し、気持ちを奮い立たせて台所へ向かう。
昨日の残りの出汁に、炊きたての白粥、柔らかく煮た根菜の味噌汁を用意する。香り立つ湯気が、少しだけ文緒の気力を引き戻してくれた。
「失礼します、朝食をお持ちしました」
いつものように静かに襖を開けて文緒が入ると、思わず足が止まった。
「――…っ、」
空黎が、寝台から立ち上がって本棚に手を伸ばしているところだった。
いつもなら、朝は寝台に腰掛けたまま、静かに窓の外を眺めているはずなのに。
それだけではない。
彼が纏っていたのは、いつもの薄い単衣ではなく、深い紺色のきちんとした着物。その姿はどこか凛々しく引き締まって見えた。
「……おはよう」
空黎がちらりと文緒のほうを見て短く挨拶をした。低く静かなその声に、文緒は我に返って慌てて御膳を持ち直す。
「お、おはようございます……!」
胸が、じんわりと温かくなる。
空黎のこうした変化が、どれほど嬉しいことか。
ほんの少し前まで未来に背を向けていた彼が、今はこうして自分から本に手を伸ばし、身なりにも気を遣っているなんて。
(お天気はあまりよくないのに……それでも調子が良さそう…)
文緒は心の中でそっと呟きながら、そっと御膳を膳台の上に置いた。
「……どうした?」
不意にかけられた声に、文緒ははっと顔を上げた。
向かい合って座る空黎の視線が、箸を持ったまま止まっている自分の手元に注がれているのに気づく。
「あまり進んでいないようだが」
「だ、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけですから」
文緒は目を伏せ、箸を持ち直した。
頭の奥で鈍く響く痛みを感じてはいたが、それは口にしなかった。自分のことなどで空黎に気を遣わせたくない――そう思った。
文緒は慌てて笑みを作りながら、何か他の話題をと考えを巡らせる。
(……今なら、聞いてみてもいいかな…)
躊躇いながらも、ふと頭に浮かんだあの光景。
地下につながる古びた階段の先に広がっていた、地下書庫の空間。
「あの……空黎様は、この旧邸に地下室があるのをご存知ですか?」
空黎は、目を細めてわずかに表情を変えた。
「……地下室?どうしてそれを?」
そう静かに問いかけられて、文緒は無意識のうちに胸元に手をやった。着物の襟元の奥で、父からもらったお守りがひんやりと肌に触れている。
「いえ、何でもないんです。昨日偶然見つけてしまって、ちょっと気になっただけなので……」
曖昧に笑いながら、話題を変えるように立ち上がる。
「あ、今お茶をお入れしますね?」
台所に向かおうと立ち上がった瞬間――ぐらりと、視界が揺れた。
足元がふっと浮いたような感覚。
脚に力が入らず、身体からも急速に熱を奪われたように、手の先が痺れていく。
意識が、音もなく滑り落ちていく。
(――だめ、倒れる……)
自分でもそう感じた瞬間。
「―――文緒っ、」
空黎の叫びが、耳の奥に響いた。
ふわりと、柔らかな温もりが全身を包んだ。
力強く、それでいてどこか震えるようなその腕の感触。氷のように冷たかったその手に感じる確かな温もりに、驚きと込み上げる嬉しさに、胸が締めつけられる。
(…こんなにも、温かさが戻っている……)
涙の代わりに、大きな安堵が一つ心の底にぽたりと落ちる。
けれどそれは言葉にはならないまま、文緒の意識はそっと闇へと溶けていった。




