第二十六話 月天術
変化は空黎だけではなく、文緒にも起きていた。
ふとした瞬間に旧邸の景色が、文緒の目には以前とは違って見えることに気づいたのだ。
長く伸びた縁側の木目。
わずかに削れた廊下の柱の傷跡。
誰も使わなくなった書斎の椅子。
それらすべてが、かつてここで過ごした《《誰か》》の存在を語りかけてくるようなのだ。
(……どうして、今まで気づかなかったんだろう)
文緒はそっと縁側に座って、手のひらで柱の傷跡をなぞる。その不思議な感覚の変化を、うまく言葉にすることができない。だからこのことは空黎や楠上たちに打ち明けられずにいた。
掃除をしているときに、あの椅子に座った誰かに見られているような気がしたり、廊下の向こうを誰かが通り過ぎたような気がしたり。
この不思議な感覚と気配が、日を追うごとに大きくなっていることは確かだった。
ある日の夜。
月明かりに照らされた廊下を、文緒は静かに歩いていた。
どこへ向かうのか、自分でもはっきりと定まっているわけではなくて――胸の奥に広がる不思議な感覚に導かれるままに、足を進めていた。
ひっそりと静まり返った旧邸の奥。
(こんなところまで来たこと、あったかしら)
ふと、視界の隅で何かが動いた。
――いや、誰かがいた?
驚いて足を止める。
廊下の先、月明かりに浮かぶ影が、ほんの一瞬だけ見えた気がした。誰かがそこに立ち、ゆっくりと歩いていったような。
「……どなたか、いらっしゃるんですか?」
思わず声をかけるけれど返事はない。夜の静寂だけが広がっている。影が見えた場所へと進むと、そこは行き止まりだった。
(気のせい……?)
ふと足元に目を落とすと、床に四角い扉のようなものがある。
「これは……」
その場にしゃがみ込むと、そこにちょうど小さな窪みがあった。そこに指を入れて、力を込めて上へと引き上げる。
すると床下の扉が開き、中からの埃が舞い上がる。
その下には――地下へと続く階段があった。
(旧邸には、地下室があったの……?)
空黎や楠上からもそんな話は聞いていなかった文緒は、その事実にまず驚いた。
けれど、文緒の胸には確かに感じられた。
この先に、《《誰か》》がいるのだと。
文緒は緊張しながらも、地下へと続く階段を一歩ずつ下りていく。
地下室に下り立つと、吸い寄せられるように奥へと足を進める。長年放置されていた地下室の床は薄く埃をまとい、踏みしめるたびにわずかに軋む音を立てた。
そしてたどり着いたのは、誰も立ち入らなくなった古い書庫だった。
壁一面に並ぶ書架。
地下室内は当然薄暗くて、埃っぽい空気が鼻をくすぐる。
その奥にまで入り込んでいくと、ふと目に留まるものがあった。埃をかぶった書物の中で、それだけが不思議と存在感を放っているそれは、古びた革装の手帳だった。
文緒は本棚から抜き取ると、指先で埃を払うように表紙をなぞった。
乾いた革はひび割れて長い年月を経たことを物語っている。ほんの少し力を入れただけで、表紙の端がかすかに崩れるほどだ。
ふわりと鼻腔をくすぐる埃の匂い。
長く誰の手にも触れられなかった、時間の堆積が降り積もっているようだった。
(――何だか不思議な感覚…)
誰かがここに残したもの。
誰かに読まれることを、長い間ただずっと待ち続けていたかのような。
静かな書庫の中、文緒はそっとその手帳を開いた。頁の端が黄ばんで、手に取るだけで紙の繊維が指にざらりと触れる。静かにめくっていくと、手書きの文字がびっしりと綴られていた。
最初の数頁はすべて古い呪術に関する記述と記録だった。
呪術の理論、式の構築、術式の応用――どこか学術書のような記述が続く。呪術に関する専門的な知識を持たない文緒には、一見して理解が難しいものばかりだったが、それでもなぜかその手は止まらなかった。
(これは誰のものなんだろう…?)
そしてある頁で、ふと指が止まった。
そこに記されていたのは―――月天術の文字。
「え……?」
そのとき、文緒の胸元でほんのりとした温かみを帯びた。
驚いて胸元からお守りのペンダントを取りだす。
柔らかく、けれど確かに感じる熱。そして――
(石の中の三日月が、光ってる…?)
お守りにしていた石のペンダントが、熱を持ち光を放っている。
驚きながらも、文緒は手帳に目を戻した。
さらに頁をめくっていくと、ある言葉が目に飛び込んできた。
『月天術は――心に宿る光明也』
文緒は指で震えるようにその文字をなぞると、ぞくりとしたものが背筋に走る。
まるで、この言葉が自分に向けて書かれたかのように感じる。
「月華は浄化の光、月天は守護の盾、輝夜は奇跡の――」
手帳の文字を無意識に口の中で唱えていると、ふと途切れた。
(……ここから先は?)
そこで、頁の文字は唐突に途絶えていた。
続きを探すように、文緒は次の頁をめくる。
けれど、どれだけめくってもその先には何も記されていなかった。
誰かが続きを記そうとした形跡があるけれど、かすかにインクが滲んだ跡しか見えない。まるで、言葉が消されたかのようだった。
(……誰が、何のために……?)
心臓の鼓動が高鳴る。
その先の頁もめくってみるけれど、何枚か破られたような跡があり続きは見当たらない。
――月天術。
知らないはずなのに、どこかで聞いたことがあるような。
触れたことがあるような。
導かれるようにやってきた地下室で見つけた手帳。
そこに記されていた『月天術』の記述。
文緒は胸元のペンダントをそっと握りしめる。
触れた瞬間に、かすかに感じる温もり。
すべてが偶然とは思えなかった。
この手帳に記された言葉は、自分と何か深い関わりを持つものかもしれない。
(この手の中の光と、何か関係があるの……?)
静かな夜の帳が、文緒の小さな疑問をのみ込んでいった。
文緒は手帳をそっと抱えて自室へ戻った。
部屋に灯る行灯の明かりが、ほんのりと障子を照らしている。
机に座り、静かに手帳を開いた。
『輝夜は奇跡の――』
そこで途切れたままの文。
(どうして、ここだけ……?)
文緒は思案しながら、手帳の頁を行灯の光にそっとかざしてみた。
滲んだインクの下に、擦れてはいるものの文字の痕跡が残っている。それが光の角度によってわずかに浮かび上がる。
文緒は消された部分を明かりに透かして、目を凝らしながら何とか文字を読み取ろうとした。
(あ、少しだけ読めそう……)
『月華』は浄化の光
『月天』は守護の盾
『輝夜』は奇跡の――
そこまで読み取った瞬間、文緒の指先が震えた。
後に続いていたのは、掠れながらも確かにそこに刻まれていた言葉。
『輝夜』は奇跡の矛 ただし魂の代償を以て成る―――
「……魂の、代償…?」
その文字がはっきりと浮かび上がる。
その意味はわからない。けれど、ただの力ではないことは直感で感じ取れた。
強大であるがゆえに、何かを失う危険を孕むものだと。
文緒はそっと手帳を閉じた。
嵐の夜、空黎を助けたあの不思議な光。
その秘密がこの手帳の中に、『月天術』という言葉の中に隠されているような気がした。




