第二十話 確かな変化
◇◇◇◇
その日の夕方、文緒は旧邸の廊下を歩いていた。
掃除の合間にふと庭へ目をやると、夕陽に染まった風が梅の木の下を吹き抜けていた。
(空黎様も、少し外に出て風に当たれたらいいのだけれど)
最近は毎日雨戸と窓を開けているので、部屋の中に風が通るようになった。
でも前に雪月花が言っていたように、少し自分で体を動かせるようになって庭を歩けるようになれたらいいなと思う。
そんなことを考えながら廊下を進むと、ちょうど空黎の部屋の前に差しかかった。
襖の向こうから微かに紙をめくる音が聞こえる。
「空黎様、失礼いたします」
相変わらず返事はなかったけれど、最近ではそれが了解の合図だと分かって文緒は躊躇わずに襖を開けた。部屋の中に入ると、寝台に腰かけた空黎が本を読んでいた。
「あ……」
文緒は思わず声を漏らす。
「どうかしたか?」
珍しく、空黎のほうから問いかけられた。
「いえ、本を読まれているのが……」
「おかしいか?」
「いえ、そうではなくて!なんだか、少し安心しただけです」
文緒は微笑みながら畳の上に膝を折って座った。
「…安心?」
「はい。ずっと外ばかりご覧になっていることが多かったので……何かに目を通される気持ちになられたのなら、少しずつお体が楽になってきたのかなと思って」
空黎は本から視線を外し、わずかに目を伏せた。
「……気の迷いだ。楠上に渡されたから仕方なく」
「それでも、良いことだと思います」
読書というのは頭も目も使う。だから、疲れていたり体調が思わしくないときほど避けがちになる。
たとえ気まぐれだろうと、本を手に読んでみようと思われたことが大きな変化だ。
文緒が静かにそう言うと、空黎はかすかに息をついた。
「昔は、書を読むのが日課だった」
「そうだったのですね」
「けれど病に伏してからは……何を読んでも、何を見ても、どうでもよくなった」
その言葉に、文緒は胸が締めつけられるような思いを抱く。
「でも、また本を手に取る気持ちになられたということですか?」
「……君が掃除をして、窓を開けたからだろう」
そう言って、空黎が壁際に備えつけられた書棚へと目線を投げる。
「え?」
「埃まみれの書棚をそのままにしておくのが落ち着かなくなった。そんな話をしたら、楠上がよこしてきただけだ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、それは確かに空黎なりの感謝の表現だった。
文緒はくすっと微笑む。
「でしたら、また何かお読みになりたいものがございましたら、お手伝いしますね」
「……」
空黎は返事をしなかったが、表情は少し和らいでいた。静かな時間が流れる。文緒はふと、本の表紙を覗き込んだ。
「それは?」
「綾羅城家の呪術についての古書だ」
「……私にも読めるでしょうか?」
文緒の興味深そうな視線に、空黎は一瞬躊躇った。けれどしばらく考えた後、小さくため息をつきながら隣りのページを指で示した。
「……試しに読んでみるといい」
その言葉に、文緒は嬉しそうに微笑んだ。
「ところで何か用があったんじゃないのか」
本から視線を上げた空黎が少し首を傾げる。
「あ、そうでした…!あの、よろしければお茶でもお淹れしようかと思ったんですけど、いかがですか?」
文緒が思い出して声をかけると、少し考えるような間を置いたあと静かに頷いた。
「ああ……頼む」
彼が素直に受け入れたことに、文緒は心の中で小さな喜びを覚えながら立ち上がった。ふと目をやると、部屋の片隅に置かれた掛け時計が午後二時を告げていた。
(もうすぐ、八つ時……)
本條家にいた頃、ちょうどこの時間になるといつも兄嫁の睦美とともに甘い菓子をつまみながら、お茶を楽しんでいたことを思い出す。
「どうした?」
空黎が、読んでいた本を閉じながら尋ねる。
「いえ、いつもこの時間になると、お義姉様と一緒におやつを食べていたことを思い出して……」
文緒は少しだけ懐かしげに微笑む。
その言葉を聞いた空黎は、じっと彼女を見つめた。
(………えっと…?)
物言いたげなその視線に、文緒は戸惑いながらも慌てて問いかけた。
「あの……よろしければ、お茶と一緒に何か召し上がられますか?」
「俺が?」
「はい。あっ、甘いものは苦手ですか?」
「いや……そういうわけではないが、久しく食べていない」
確かに、本邸からあんな食事しか運ばれていなかったのだから、甘味など用意されることもなかっただろう。
「でしたら、何かお作りしますよ。少しだけでも召し上がってみませんか?」
空黎はすぐに返事をしなかった。けれど、しばらく文緒のまっすぐな瞳を見つめ、わずかに息をつく。
「……ああ」
その返事に、文緒は楽しげに微笑む。
「何がいいですか?」
そう尋ねると空黎はふと動きを止めた。
「……何が、とは?」
「お茶と一緒に召し上がるものです」
「俺に聞くのか?」
「はい」
文緒の返答は至極まっすぐだった。まるで当然のように、彼自身の希望を知ろうとしている。空黎は戸惑いを隠すように目線を本へと戻すが、当然のように内容は頭に入っていない。
甘いものなど、ずいぶんと長い間口にしていない。
もともと特別好きというわけでもなかったが、考えてみれば子供の頃はたまに母が用意してくれていた気がする。
(……それを懐かしいと思うとはな)
おそらく、文緒が本條家での思い出話をしたものだから影響されたのだろう。苦笑が胸の奥に滲む。
「……なんでもいい」
しばし沈黙したあと素っ気なくそう答えた。
文緒は微笑みながら、少し考え込むように指を軽く折っていく。
「ええと……おはぎ、お団子、葛餅……あとは、ぜんざいとかでしょうか。どういうのがよろしいですか?」
空黎は静かにその言葉を聞いていたが、どこか居心地が悪そうに視線を逸らした。
「……どれでもいい」
ぽつりと、そう呟く。
けれどその声音は、どこかほんのわずかにこれまでより柔らかくなっている気がする。
文緒はそんな空黎の様子をじっと見つめたあと小さく頷いた。
「では、すぐに準備しますね!」
文緒は嬉しそうに立ち上がると、軽やかに部屋を後にする。
空黎はそんな彼女の背中を見送り、襖が静かに閉まる音が響いたあと、空黎はふと視線を落とした。
(……どれでもいい、とは言ったが)
脳裏に浮かぶのは、遠い昔の記憶。
母が幼い自分に、小さく丸めた団子を作って食べさせてくれたこと。
けれど自分から「団子がいい」と言うのは、さすがに気恥ずかしく憚られた。
(おやつ……か)
そんな何気ない習慣さえ、自分の生活から消えて久しいことを改めて思い知る。
けれど今。
空黎の世界にはそれを思い出させてくれる存在がいる。それが、ほんの少しだけ、悪くないことのように思える。
(……まぁ、たまにはいいか)
かすかに目を伏せながら、空黎は静かに息をついた。




