第十七話 空黎の弟
◇◇◇◇
夕餉を終えた後、文緒は静かに立ち上がった。
「では、窓を閉めますね」
空黎が何も言わないのを確認しながら、文緒は丁寧に障子窓を閉じて雨戸を引いた。さっきまで吹き込んでいた夜風が遮られて、部屋の中はしんとした静寂に包まれる。
枕元には夜に飲む水を用意する。その横に雪月花が調合した薬をそっと置いた。空黎の体質に合わせて作られたという、特別な薬だと聞いている。
「お薬もここに置いておきますね」
「……」
空黎は答えなかった。
けれど、薬に視線を向けたことに文緒は気づく。
これまでなら、気にも留めずに放置していたのに。少しずつでも、彼の中で何かが変わり始めているのかもしれない――文緒はそんな期待を抱きつつ、静かに一礼した。
「では、おやすみなさい」
空黎はやはり何も言わなかったが、文緒は気にせず部屋を後にした。
襖を閉め、ふっと息をつくと手に持った御膳を見下ろす。
(半分も…食べてくださった)
おかずは残っているものの、お粥と清汁は全部食べてくれた。
それだけで、心が温かくなる。
今日の昼食までのことを思えば、十分すぎるほどの進歩だった。思わず、頬が綻ぶ。
彼がまた食事を取るかどうか、それはまだ分からない。けれど、たった一歩でも進めたことが、文緒には何よりも嬉しかった。
この距離が、いつかもっと縮まることを願って。
(明日もまた、頑張ろう)
小さく心に誓いながら、廊下を歩き出したその時――角を曲がったところで、誰かとぶつかりそうになった。
「…っ!」
咄嗟に立ち止まる。
腕に抱えた御膳が傾きそうになって、慌てて体勢を整えた。
「あ、失礼しました…っ」
ぶつかりそうになってしまった相手に頭を下げてから、顔を上げる。
廊下に立っていた男性は、一瞬、空黎かと見紛うほどの面差しを持っていた。
明るく茶色い髪は空黎よりも短く、無造作に後ろで一つに束ねられている。肌はやや日に焼けて健康的な色をしていて。着物の着こなしはどこか乱れていた。
空黎と似ていると思ったけれど、違う。
そのことは、次の瞬間にははっきりと理解できた。
今の空黎が纏うどこか儚げな雰囲気も、冷たくも凛とした気配もこの男性にはない。
――もっと、粗野で鋭い。
唯一空黎と同じなのは――まだ鈍色に濁る前の、琥珀色の瞳だけだった。その瞳が、文緒をじろりと見下ろす。
「やあ、兄嫁様とお呼びしたほうがいい?まだ少し気が早いか」
文緒はその言葉にはっとした。
綾羅城家の嫡男、空黎の双子の弟。
名前は暗夜。
綾羅城家に双子の兄弟がいるというのは有名だったが、文緒は顔を合わせるのは初めてだった。祭祀の時ですら、その姿を見た記憶がない。
廊下の柱に気怠げに寄りかかった姿勢から投げかけられる声と視線は、明らかに挑発的だった。文緒は戸惑いながらも、息を整えて慎重に口を開く。
「……本條文緒と申します」
目の前の男性――綾羅城暗夜は、丁寧に会釈をする文緒を嘲るように笑った。
「へえ、随分と殊勝な態度だな」
暗夜は軽く首を傾げて、口角を吊り上げる。
「死にかけの兄上のもとに嫁いでくるなんて、どんな物好きかと思って見に来たよ」
その言葉に文緒の中に言いようのない嫌悪感が走る。
「政略結婚とはいえ、あんな呪われた男のところになんで来る? 普通なら逃げ出すだろ。それとも、綾羅城家の財力に目がくらんだ?」
軽い調子で放たれた言葉。
けれどその奥には、確かな悪意が潜んでいる。
空黎にも、そして雪月花にも似たような言葉は投げかけられた。
でもそれは挑発でも嘲りでもなかった。
ただ目の前の彼は違う。意図して挑発的な言葉を使って、こちらを傷つけるために投げつけられたものだ。怒らせたいのか、それとも傷ついた顔が見たいがためか。
文緒は、相手の思惑に乗らないよう凛と背筋を伸ばした。そして一度深く呼吸を整えてから、文緒は淡々と、しかし確固たる意志を込めて口を開く。
「そのようなことはございません。私は自分の意思で、空黎様のもとに参りました。それから――」
文緒は真っ直ぐに暗夜を見据えた。
「私のことはどう思われても構いません。けれど、病と戦っていらっしゃる空黎様のことを侮辱するようなお言葉は、お控えいただきたく存じます」
冷静な声音に、暗夜の表情が僅かに変わる。
「へぇ……?」
興味深げに目を細め、文緒の顔を覗き込むように身を乗り出す。
その仕草はまるで珍しい生き物でも観察するかのようで、背筋にぞわりとしたものが走った。
「面白い女だな。あんたみたいな女が兄上のところに来るなんて」
文緒はその言葉にも表情を変えなかった。
暗夜はふっと口角を上げると、ゆっくりと踵を返した。
「まあ、好きにすればさ、どうせ長くはないだろうから」
そう言い捨てると、暗夜は旧邸を出て行った。
暗夜の後ろ姿が闇に溶けるように消えていった。
その瞬間、文緒の肩から力が抜ける。
張り詰めていた糸が切れたように、ゆっくりと息を吐いた。
どこから廊下に流れてくる冷えた夜気が頬を撫でる。けれど、それでも火照った肌の熱は引かない。
――心臓が早鐘を打っていた。
胸元にそっと手を当てる。
暗夜の視線、言葉、態度――全てが試されているようで、肌を刺すような感覚を覚えた。
彼は間違いなく空黎の弟だったけれど、彼の瞳にあったのは決して友好的なものではなかった。
『君は綾羅城を知らない』
空黎の言葉が、ふと脳裏に蘇る。
確かに、文緒は知らなかった。
綾羅城家がどれほどの権力を持っているのか。そして、本邸に暮らす人たちが何を考えて暮らしているのか。
空黎がこれまで何を背負ってきて、どれほど孤独だったのか。
(ううん、今はそんなことよりも…)
今は、自分にできることをするだけ。
もし空黎が、綾羅城家の中で誰にも頼れないのだとしたら、せめて自分だけでも。
(私が、少しでも力になれたら……)
それが今の自分にできること。
それが、ここに来た意味。
『どうせ長くはないだろうからさ』
そんなことにはさせない、させたくない――絶対に。
夜の静寂の中、遠くで風が木々を揺らす音がした。
心臓の鼓動はまだ速かったが、それでも少しずつ落ち着いていくのを感じる。
(まずは、できることから)
文緒はそっと目を閉じ、深く息を吸い込む。
手の中の御膳をしっかりと持ち直すと、ゆっくりと旧邸の廊下を歩き出した。




