第十六話 拒絶の真意
◇◇◇◇
「どうして……そこまでする」
空黎は、胸の奥から絞り出すように言葉を吐き出した。
――分からない。
どうしてこんなにも献身的になれるのか。
どうしてこんなにも迷いなくそばにいようとするのか。
「こんな俺に献身的になればなるほど、君は周囲から冷たい目で見られることになる」
低く押し殺したような声が、静まり返った部屋に空しく響いた。
「呪病を患う俺の元に嫁いできたというだけでも、すでに噂は立っているはずだ」
窓の外では、夜の静寂が広がっていた。月明かりが障子越しに柔らかく差し込んでいるが、その光はどこか淡く頼りなげだった。
「君は――綾羅城家を知らない。その狡猾さも、非道さも」
苦々しさを滲ませた声が、唇からこぼれる。
「俺が死んだ後、君はどうなると思う?」
文緒は何も言わずに、ただじっと空黎を見つめている。
「綾羅城家は、嫡男の嫁が本條家に戻ることを決して許さない。君はこの家で、何十年もただ飼い殺しにされるだけの存在になる」
これは、綾羅城家の嫡男が妻も娶れずに死ぬことを許さないという、ただそれだけの理由で決められた婚姻だった。
所詮は、綾羅城家の体裁を守るためだけのもの。
だから彼女にも早く気づかせるべきだった。この婚姻の本質を。彼女が今、置かれている状況を。
「……婚姻を結ばないと言ったのも、そのためですか?」
文緒の声音は静かだった。
「……君の未来を、奪いたくなかった」
だから自分は最初から拒絶し、この婚姻を否定した。
「三年前のことを恩に感じているのならその必要はない。恩義で人に嫁ぐな。君の人生がもったいない」
「初めは……そうでした。ご恩を返すためだと。でも今は違います」
文緒は怯むどころか、静かに一歩前に踏み出した。
その声にはどこか揺るぎない響きがある。
「もちろん、先のことは私にも分かりません。でも、たとえ空黎様がおっしゃるような未来が待っていたとしても――私は今、おそばにいたいのです」
文緒の真っ直ぐな目に、息が詰まる。
「どうして、そんなにも迷いなく言い切れる?」
この呪われた場所で。
自分の未来を潰してまで、どうしてそばにいようとするのか。
空黎は言葉を失ったまま、ただ文緒を見つめる。月の光が、静かに二人の間に降り注いでいた。
「……煤がついている」
空黎の指先が、文緒の頬へと伸びた。
指先に触れる感触は、わずかにざらついている。煤がついた肌は、彼女が今日一日、どれほどの時間を費やし、労を惜しまずに働いていたかを物語っていた。
「君は、愚かだ」
呆れたように、低く告げる。
けれど、その指先は驚くほど優しかった。
煤を拭い取る手が、少しだけ震えているのが分かる。
これまで誰かを気遣う仕草を忘れていたはずの手が、触れることを思い出すように、そっと頬をなぞる。
ほんの一瞬、文緒の瞳が見開かれて、それからふっとほころんだ。
「……そうかもしれません」
今朝も同じことを言われたと思い出したのか、煤を拭われた頬に、無邪気で柔らかな笑みが浮かんだ。
その表情に空黎は息を詰める。
拒絶して遠ざけることでしか、自分を保てなかった。
それなのに、この手がいま無意識のうちに触れたのはなぜなのだろう。
「召し上がっていただけますか……?」
文緒はそっと、お椀を差し出した。
空黎の手が届くように、控えめな仕草で。
空黎はそれを黙ったまま、差し出されたそれをじっと見つめる。
自身の冷たい殻に生まれた僅かな隙間。
そこに入り込もうとする温かな存在と、それを受け入れようとしている自分自身に空黎は戸惑った。
「……君は本当に、愚かだ」
もう一度、呆れたような諦めたような表情を浮かべながら、空黎は小さく息をつく。
けれど、濁っていた鈍色の瞳にほんの僅かな光が宿ったのを、文緒は確かに見た。
「…今食べたら、どうせ明日も作るのだろう…?」
言葉には、諦めと警戒が入り混じっていた。
文緒は迷うことなく頷く。
「もちろんです。でも、召し上がっても召し上がっていただけなくても作りますが」
淡々とした口調に、空黎の眉がかすかに動いた。そうなると、ますます拒む理由がなくなってしまう。
何か最後の抵抗をするように、空黎はただお椀を見つめ続ける。
決して受け取ろうとはしない。
文緒はふっと口元に笑みを浮かべると、少しだけ冗談めかした調子で口を開いた。
「では、食べさせて差し上げましょうか?」
「――は?」
明らかに虚を突かれた顔をする空黎。
ほんの一瞬だけ、瞳の奥に戸惑いの色が浮かぶ。それがすぐに、冷ややかな怒りへと変わった。
「ふ、ふざけたことを…」
「でも私たち、夫婦になるんでしたらそのくらいしてもおかしくはないかと」
文緒の脳裏には、まだ新婚の兄夫婦の姿が浮かんでいた。兄嫁の睦美が、兄の世話を焼く姿。照れくさそうにしながらも、それを甘んじて受ける兄の姿も。
「だからっ、婚姻は結ばないと…」
文緒は仕方のない人だな、と思いながら小さく微笑む。
そして静かに諭すように言葉を添えた。
「それがお嫌でしたら、ご自分で召し上がってくださいますか?」
そう言って、差し出したままの手を少しだけ近づける。空黎は一つ息をつくと、観念したように手を伸ばした。迷いがちに指先が触れ、ゆっくりとお椀が受け取られる。
この場に雪月花がいなくてよかった。いたらどんなからかいを受けるか火を見るより明らかだ。そんなことを思いながら、空黎は根負けしたようについに口を付けた。
湯気がふわりと立ち上る。
その香りに、空黎の表情がわずかに動いた。
文緒はじっと見守る。
静かな時間の中で、空黎はゆっくりと汁を口に含んだ。
舌の上に広がる、やわらかな味。
昆布と鰹の出汁の優しい旨みが、じんわりと喉を通っていく。
「……どうでしょうか?」
文緒が恐る恐る尋ねる。
空黎は返事をせず、黙ったまま、もう一口。
そして、さらにもう一口。
それだけで、文緒の顔がぱっと明るくなる。
「よかった…!お口に合ったみたいですね」
そう言って文緒が安堵の笑みを浮かべると、空黎はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……ただの空腹だ」
照れ隠しのような声音だった。
けれど、おそらくそれだけではないことを文緒はちゃんと分かっていた。
空黎がこの食事を、彼は自らの意思で口にしてくれた。
それだけで、十分だった。
空黎は黙々と椀の中を空にしていく。
ゆっくりと、しかし確実に、ひとさじずつ。
やがて、空黎はお椀を置き、ふっと小さく息を吐く。
「…ごちそうさま」
ぼそりとした言葉だったが、文緒の耳にはしっかりと届いた。
一瞬、彼女の瞳が驚きに見開かれる。
(あの空黎様が、「ごちそうさま」と…!)
驚きのあまり、しばらく呆然として見つめてしまった。
すると、そんな彼女の様子に気づいた空黎が、じろりと視線を向ける。
「…なんだ」
「い、いえ!その…嬉しくて…!」
文緒は咄嗟に言葉を濁し、顔をほころばせた。
「少しでも召し上がっていただけて、本当に良かったです」
その素直な喜びに、空黎はなんとも言えない表情をする。
まるで、そんなに大げさに喜ばれることが不思議だとでも言いたげな――
しかし、彼はそれ以上何も言わず、ただ視線を逸らした。
「…明日も作るのか」
「もちろんです!」
即答する文緒に、空黎はわずかに肩を落としたようだった。
「…勝手にしろ」
それは、無言の許可のようにも聞こえて、文緒は嬉しそうに頷いた。




