第十二話 時が止まった台所
◇◇◇◇
文緒は自室へ戻ってから少し遅い昼餉をとることにした。
目の前の膳に載った味噌汁を手に取ると、椀の中ではすでに冷え切った汁が静かに揺蕩っている。
一口すすると、出汁の味は感じるもののどこか素っ気なく寂しげな味が広がるだけ。そんなことを思いながらも、文緒はゆっくりと箸を動かして何とかすべてを胃の中へと流し込んだ。
食事を終えて、空の御膳を持って廊下を歩く。
すると、ちょうど向こうから楠上がやってくるのが見えた。彼の手にも同じように御膳があった。空黎のものだ。
その上に載った器は、案の定ほとんど手をつけられていなかった。やはり、と文緒は唇を噛む。
「お昼も召し上がっていただけませんでしたか…」
問いかけると、楠上は静かに頷いた。文緒の胸が重くなる。
(少しでも食べてもらわないと……)
空黎の痩せた姿を思い浮かべ、昨日雪月花が言っていた言葉を思い出す。
『まずは、きちんと食事を取ることだね』
でもどうすればいいのだろう。
せめて、温かい食事を用意する方法は何かないだろうか。
そのとき、ふとひらめいた。
「あの楠上さん。この建物って昔は本邸として使用されていたんですよね?」
思い立つままに尋ねると、楠上はわずかに眉を上げて不思議そうな表情をした。
「はい、そうでございます。二十年ほど前まではですが…」
「ということは、御台所があったはずですよね?」
「ええ、ございますが……長らく使われておりませんので……」
楠上の声には困惑の色が混じっている。
けれど、文緒は迷わなかった。
「お願いします、案内していただけませんか?」
思わぬ申し出に楠上は驚いたように目を丸くするも、文緒の意思がかたいと分かると静かに頷いた。
こちらですと言って、文緒を旧邸の奥へと案内した。長い廊下を進んでいき角を曲がると、まだ掃除の行き届いていない埃を被った障子を開ける。
するとその向こうには、かつての台所が姿を現した。
厚く積もった埃に覆われた三和土。
大きな竈が、長年使われることのないまま静かに鎮座している。壁沿いには、使い込まれた鍋や釜が並び、天井からは煤けた自在鉤がぶら下がっていた。
(ここも、時が止まったままみたい……)
文緒はそっと台所の奥へと足を踏み入れた。
指先で棚をなぞると、すぐに白い埃が舞い上がる。
長い間、誰の手も入らなかった場所。
けれどここなら、自分にできることがあるかもしれない。
「楠上さん、この御台所を私に使わせてもらえませんか?」
楠上は目を見開き、驚いた表情を浮かべる。文緒の目には、強い決意の色が宿っていた。文緒は迷わず、着物の袂を結び上げた。
「文緒様、まさかご自分で……?」
楠上が慌てて制止しようとする。
「ここはずっと長い間放置されていたのです。それにもう使えないかもしれません」
文緒は静止する言葉を聞くよりも早く、すでに棚を開いて埃を払いながら使えそうなものを探し出していた。
「竈は丈夫そうですし、掃除をすればすぐに使えるはずです。火の起こし方は母に習いました」
そう言いながら手際よく水桶を見つけ、使えそうな雑巾を濡らしていく。
「しかし……」
「温かいものを食べていただきたいんです」
雑巾で竈を拭きながらそう言った文緒に、それまで躊躇いがちだった楠上がはっとした。
「このまま、何も召し上がらないのを見ているのはやっぱりつらいです」
楠上は言葉に詰まる。
この旧邸で、空黎の世話をしていたのは彼だけだった。
本邸の者たちは皆、呪病を患った空黎を遠巻きにし、積極的に世話をしようとする者はいなかった。それはおろか旧邸に近づくことすら拒んでいる。
けれど、ここに来たばかりの少女が、こうして必死に空黎のために何かをしようとしている。楠上は深い溜息をつきながらも、柔らかく微笑んだ。
「……分かりました。私も手伝わせていただきます。まずは薪を……」
「それは本邸へお願いに行こうと思います」
「それなら私が行きましょうか?」
楠上の言葉に文緒は首を振った。
自分から本邸へ行きたかった。旧邸で黙って閉じこもっているだけではないと、少しでも分かってもらうために。
「…それでしたら、私が台所の掃除を始めておきましょう」
そう言うと、楠上はすでに袖を捲り上げてさっそく動き始めていた。
「昔使っていた道具も、まだどこかにしまってあるはずです」
「ありがとうございます…!」
文緒は嬉しそうに頷くと、楠上が台所にある窓を開け放つ。埃まみれの台所に、午後の日差しが差し込んだ。




