第十一話 返り花
◇◇◇◇
「失礼します、空黎様。入ってもよろしいでしょうか?」
文緒は空黎の部屋の前で、襖の向こうへ静かに声をかけた。
返事はない。
けれど拒絶の言葉もなかった。
それを都合よく解釈して、文緒はそっと襖を開けた。
きっとこの部屋も、朝の時と同じようにまだ雨戸も障子窓も閉め切られたままのはずだ。そう思いながら、文緒は静かに部屋へと足を踏み入れる。
空黎はやはり、朝の時と同じ体勢だった。
寝台の上で壁にもたれかかり、今は腕を組んだままその目も閉じられている。
「失礼しますね」
もう一度小さく声をかけてから文緒は迷わず窓際のほうへ向かう。
長年閉ざされていた障子窓に手をかけると、空気中に埃がふわりと舞った。まずは水拭きをして粗方汚れを拭き取ってから、いよいよ開けるために窓に手をかけた。
――ギギィ……
長い間開かれていなかったせいか、窓枠はわずかに軋むような音を立てた。それでも力を込めると、ゆっくりと開いていく。そして、一気に外の光と風が部屋の中に流れ込んだ。
澱んでいた空気を押し流すように、軽やかに、優しく。
「……騒がしいな……」
低く、けれどわずかに掠れた声が響いた。
その声に文緒が振り向くと、寝台に腰かけたままの空黎が眉をひそめていた。白い単衣に包まれた彼の姿は、まるで光から逃れようとするようにわずかに身体を背けている。
(……光を、避けようとしている?)
空黎の見せた何気ない仕草に、文緒の胸がにわかに疼く。それでも自分のやるべきことは変わらない。
「お天気がいいですから、少し空気を入れ替えましょう」
これも特に否定はされなかったので、意図的に明るい声で言いながら窓をさらに大きく限界まで開け放った。すると、目の前に広がるのは立派な梅の木だった。
優美な曲線を描くように大きく枝を広げた梅の木は、もしも見ごろの季節だったら、きっと綺麗な花を咲かせていたのだろう。
当然ながら花はすでに散ってしまって、その姿を想像することしかできないのが少し残念だった。
「すごく立派な梅の木ですね」
そう言いながら、文緒は空黎に視線を向けるも、空黎はその視線すらも避けるように窓の外を見もせずに呟いた。
「梅の花は一番嫌いだ」
突き放すような、冷たい声。
何か深い感情を押し殺したような響きに、一つの記憶が呼び起こされる。
「……それは、返り花のせいですか?」
文緒がぽつりとそう言うと、空黎ははじかれたように文緒を見た。
三年前――文緒が空黎を初めて見た祭祀の日。
あのときのことを、文緒はずっと覚えている。
いや、忘れられるはずがない。
初めて祭祀に出席した十五の秋。
文緒が養女であることは周知の事実だった。ただ、血筋を重んじる呪術界において養子を取ること自体が稀だったため、奇異の目で見られることも少なくない。
出席できるだけでも身に余る光栄なこと。
自身の立ち位置や振る舞いを間違えないよう、本條家に泥を塗らないよう、そして他の家に迷惑をかけることがないように――ずっと気が張っていた。
そして、祭祀の一幕が終わりふと緊張の糸が解けた刹那だった。
祭祀が執りおこなわれた庭園にも立派な梅園があって、そのうちの一本の梅の木に咲く、小さく白い花に目を奪われた。
葉はすべて落ちた枝に、一輪だけ咲く白い花―――思わず足を止めて見上げた文緒に、誰かが言った。
「……咎の元凶が咲いた花に惹かれるとは、やはり血筋が違えば感覚も違うのだな」
その侮蔑を含んだ声に、周囲の空気が冷えるのを感じた。
あの日は秋の彼岸。
梅の花が咲くのは、あまりにも時季が外れていた。
本来の季節を逸脱して咲く花は天地の理に反する。周囲の大人たちはざわめき、口々に不吉だと言い始めた。
《なぜ祭祀の日に…縁起が悪い》
《返り花は災厄の前触れと言うが…》
《何か良くないことが起こらなければいいが…》
なんてことをしてしまったのだろう。
一瞬気を抜いて花に目を奪われたりしたからだ。このまま何か罰を受けるのではないか、とよぎった時。
「くだらない」
石畳を踏む響きとともに現れたのは、先ほどまで祭祀の中心にいた最強呪術師――綾羅城空黎だった。
周囲の視線が一斉に彼へと向き、一瞬でざわめきが止まった。
代わりに空気がピンと張りつめたように静まり返る。
「返り花は咎でも兆しでもない。ただその時期に咲くよう初めから決まっていたのだ。ただの現象にすぎない」
「しかし……っ」
「もし本当に不吉なら、祭祀の前に排除しておくべきだった。それをしなかったのは、そちらの落ち度だろう」
誰も、何も言い返すことなどできない。それほどまでに場の空気を支配する圧倒的な力があった。
「この者は不吉なものではなく、見逃さない目を持っていた。それだけのことだ」
それだけ言い残すと、空黎は踵を返す。
その直前、一瞬だけ目が合った。
琥珀の瞳と、祭祀のために長い髪に編み込まれた平組紐の朱。
その色だけが、いつまでも目に焼きついて離れなかった。
誰も自分の存在をまっすぐ見てくれなかった中で、空黎だけが庇い認めてくれた。
そのことが、文緒の中にいつまでも残っていた。
しかし、その翌年が明けてすぐに、妖・百面の女が現れ帝都は混乱に陥った。
空黎は戦いに勝利し妖を封印したものの、その影響で呪病を発症して病に伏せることになる。
呪病を患った空黎はそれ以来、祭祀に姿を見せることはなくなってしまった。
あの時に伝えたかったお礼を告げる機会は、失われてしまったまま。
文緒にとってはたった一度、でも一生忘れられない人。
そして、心のどこかにいまだ拭えぬ影があった。
梅の花は冬の寒さに耐えて立春に咲く花。
そのため、厳しい冬を越えられないまま咲いてしまった花は『寿命を削るもの』として不吉の象徴とされていた。
空黎の身に起きた災厄は、やはり自分が返り花を見つけたせいなのではないか――と。
文緒は、いま目の前にいる空黎を見つめた。
三年前のあの光景が脳裏から消えないまま、静かに口を開く。
「……空黎様。あの時、祭祀で私を庇ってくださったこと……本当に、ありがとうございました」
空黎の表情は、何の変化もなかった。
彼自身は覚えていないかもしれない――それでも伝えておきたかった。
「私は梅の花が好きです。返り花も、そうでなくても」
目の前の梅の木をもう一度見上げる。
「だから、この梅の木が満開に咲くところが見てみたいです。きっとすごく綺麗でしょうね」
空黎はその言葉に、ちらりと窓の外の梅の木を身やる。
「その頃には俺は生きていないだろうが」
ただ無表情のまま静かに言葉を零した。
まるで当たり前のことを告げるかのように、あまりにも自然な口調で。
それが余計に、文緒の胸を締めつける。
まるで自分がもうすぐこの世から消えることを、とうに受け入れているようだったから。
(そんなふうに言わないでほしい……)
梅の花が咲く頃――空黎にとってはそれは未来ではなく、訪れない時のことなのかもしれない。でも文緒にとっては、未来の象徴のように思いたかった。
「私は、この梅の木が満開になるところを一緒に見たいです…見られると信じています」
文緒は静かに、けれどしっかりとした声そう言った瞬間、空黎が文緒へと顔を向けた。
驚いたような、かすかな表情の変化。
けれどそれも一瞬のことで、すぐにまた鈍色の瞳には深い憂いが滲んだ。
「……君は愚かだ」
突き放すような言葉が胸に刺さった。
この言葉も、呪病がそうさせているのだとしたら――どんなに今のこの気持ちを伝えても届かないのかもしれない。
それでも文緒は、ただまっすぐに彼を見つめ続ける。
「……そうかもしれません。なので、勝手に信じてますね」
だったら、何回だって伝えればいい。
もう言われすぎてしまって、疑問も持たなくなるくらいに。
「満開の梅の花、楽しみですね」
もう空黎は何も言わなかった。
否定するわけでもなく、受け入れるわけでもなく。
けれど、確かにその瞳は――ほんの少しだけ揺れていた。




