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輝夜の花嫁~嫁いだのは、余命一年の旦那様でした  作者: 綾瀬アヲ@2月初書籍発売


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第十話 新しい風

 旧館の廊下へ出ると、薄く曇った窓硝子から朝の光がぼんやりと差し込んでいた。


 文緒は周囲をゆっくりと見渡す。

 埃を被った床、剥がれかかった漆喰、くすんだ柱。長く放置されていたことが一目で分かる荒れ果てていて、どこから手をつければいいのか一瞬迷うほどだった。


 けれど、ここはこれから自分が住む場所。

 そして空黎が療養する場所。


(このままじゃだめ。少しでも、心が落ち着く空間にしないと)


 文緒は着物の袖を手拭いで括り上げると、雑巾を手に取った。


 まずは、空黎の部屋に一番近い廊下から始めよう。

 長年の埃が染み付いた板の間に膝をつくと、ゆっくりと雑巾を滑らせる。


 力を込めて拭くたびに、雑巾があっという間に黒ずんでいく。それでも根気強く磨いた床は次第に本来の色を取り戻し始める。濡らした布を何度も洗い、水を替えながら、文緒は一枚一枚の板材と向き合うように磨いていった。


 それを繰り返していくうちに、いつしか手のひらを滑らせると、ようやく木目の感触が戻ってくる。


(こんなにも汚れていたんだ……)


 床がわずかに輝きを取り戻したのを確認して、次は建具へと移る。障子を丁寧に外し、破れた部分に新しい和紙を当てる。


 張り替えたばかりの障子はふわりと柔らかく白く輝いて見えた。


(これだけでも、ずいぶん明るく感じるかも)


 襖や鴨居に溜まった埃を払ってから指の腹でなぞると、ざらついていた木の表面が滑らかになっているのを感じる。


 溝に詰まった垢も、布を使って丁寧に掻き出していき、壁の染みは可能な限り擦り落としていく。静かに、しかし確実に――旧邸に生気が戻りつつあった。

 文緒が黙々と作業を続ける最中、ふと、空黎の部屋からかすかな咳の音が聞こえた。


「……っ、」


 文緒は思わず手を止めて、耳を澄ます。

 激しい発作ではないようだ。しばらくすると静かになる。


(大丈夫……?)


 心配は募るけれど、今の自分にできるのはこの環境を少しでも快適に整えること。そう思い直して、また黙々と手を動かした。


 そうして陽が一日で一番高くなる頃には、旧邸内の空気は少しだけ軽くなったように感じた。


 次に、建物の中に光を取り入れようと雨戸に手をかけた。

 旧邸に差し込む陽の光はほとんどなく、屋敷全体が長い眠りについているかのような暗さに包まれている。風通しをよくして少しでも空気を入れ替えていかないと、いつまでも空気が澱んだままだ。


 雨戸を開ければ、少しは風が通るはず。そう思い、文緒が手をかけた瞬間――


「文緒様、いったい何を……!」


 背後から慌ただしい足音と共に、楠上の声が響いた。振り返ると、彼は息を切らせたまま、戸惑いと焦燥の入り混じった表情をしていた。


「申し訳ございません。雨戸や窓を開けることは禁じられているのです」

「……それは、どうしてですか?」


 文緒は静かに尋ねた。

 楠上は言葉を選ぶように、一瞬ためらってからゆっくりと答えた。


「旦那様からの厳命でございまして」

「それは……『呪病』のせいで?」


 楠上は小さく息をのんで、遠くを見るように目を伏せたあと、文緒の問いに静かに頷いた。


(やっぱりそうなんだ…)


 この旧邸全体が完全に外と隔離されている。



 ◇◇◇◇



 楠上の眼差しの奥では、遠い記憶が浮かび上がっていた。


「『呪病』については未だ不明な点が多すぎる」


 現当主・綾羅城千影の、低く厳格な声が響く書斎。彼は厳めしい表情のまま彼は続けた。


「呪術師にのみ感染する可能性も否定できん。そうなれば、綾羅城家は終わりだ。被害を最小限に抑えるため、空黎はあの旧邸に隔離することになった。外界との接触は最小限にする必要がある」


 まるで厄介者を扱うかのような冷たい口調だった。それが、空黎を旧邸に追いやった理由。当主の決定は絶対だった。



「ここは私の住まいでもあるのですよね?」


 文緒の声に楠上の視線が現実に戻ると、彼女はじっと彼を見つめていた。

 彼女の目に迷いはない。


「……はい。しかし……」

「でしたら」


 文緒は、ふっと微笑んだ。


「私のやりたいようにやらせていただけませんか? もしご当主様から何か言われましたら、私がお叱りでも罰でもお受けします」


 そう言うと、文緒は躊躇することなく再び雨戸に手をかける。楠上の制止を振り切って迷うことなく、一枚、また一枚と開いていった。


 ――ガラリ……


 楠上は、文緒のすることをじっと見つめていた。

 長い年月、閉ざされたままだった旧邸に、彼女は迷いなく光を呼び込んでいく。


 文緒は黙々と窓硝子を拭き、古い建具を整えながら、風を通していく。その姿は、小さな手で古びた屋敷の命を取り戻そうとするかのようで――


『やはり自分の判断は正しかった』――楠上はそう思った。


 この方こそが、本当に彼のそばにふさわしい方なのかもしれないと。


「文緒様」

「はい?」


 振り返る文緒の瞳は、まっすぐだった。

 雨戸を開けたことで、昼の光を浴びた彼女の顔には、穏やかな光が差し込んでいる。


「私にも、お手伝いさせてください」


 文緒の目が驚きに見開かれる。

 けれどすぐに彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 深く頭を下げる文緒に、楠上も静かに頷く。

 二人は力を合わせて、もう一枚、もう一枚と雨戸を開けていった。


 陽の光は徐々に旧邸の奥まで届いていって、暗かった廊下にも優しい光の道筋が伸び始める。閉ざされた空間に、久しぶりの陽の光が差し込んだ。


 外は青空が広がっていて庭の木々が風に揺れているのが見えた。


 それから埃まみれの窓硝子を丁寧に磨いていく。布を何度も変えて根気よく拭き続けると、少しずつ透明感が戻り、外の景色がはっきりと映るようになっていった。

 

 埃を払い、光を招き入れ、長年閉ざされていた屋敷に新しい風を通す。長い間沈黙していた屋敷がようやく息を吹き返したように感じられる。


 薄暗かった旧邸の廊下に、柔らかな光の道筋が伸びていった。


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