第九話 湧き上がるもの
翌朝、文緒は早くに目を覚ました。
まだ朝の早い時分に、旧邸の外から微かな話し声が聞こえてくる。
小さく、ためらいがちなそれがやがて止むと、控えめに戸を叩く音が響いた。
(誰だろう……?)
文緒は急いで身支度を整えて部屋を出ると、戸を開ける。そこには、二人の若い女中が立っていた。
二人とも文緒と同じくらい、十代後半だろうか。綾羅城家の女中らしく、浅葱色の着物に白い前掛けを身につけている。
「……あの、朝餉を、お持ちしました」
向かって右側の女中が、震える声でそう告げる。
その手には、大きな御膳。細い指先がわずかに震えているのが、文緒の目にもはっきりと分かった。その小さな肩は明らかに強張っている。
もう一人は沈黙して、完全に視線を落としたままだった。どこか張り詰めていて、言葉にならないものを抱えているような。
二人の表情に共通しているのは、明らかな恐れ。
文緒はそんな彼女たちの様子を見つめながら、そっと微笑んだ。
「ありがとうございます。空黎様には私が運ばせていただきますね」
文緒がつとめて明るく柔らかな声で告げると、二人は顔を上げた。その目は驚いたように瞬いている。「ありがとう」と微笑まれたことが、予想していなかった反応だったのかもしれない。
戸惑いの色が浮かんだのも束の間、張り詰めていた糸が緩んでいくように、次第にその表情が安堵へと変わっていく。
「し、失礼いたします……!」
一人は慌ただしく文緒へと御膳を渡す。もう一人の女中は、それに倣って深く頭を下げた。二人はくるりと背を向けると、わずかに乱れた裾を翻しながら本邸のほうへと小走りで駆けていく。
文緒は静かにその後ろ姿を見送った。
やがて二人の背中は本邸の向こうへと消えていき、旧邸には静寂が戻っていた。
原因不明の不治の病に侵された空黎の住まう旧邸。
かつて最強呪術師と謳われ、畏怖の対象ですらあった空黎をここまで衰えさせた病。そしてそれは、三大呪術家の一つである刹那家ですら治せないという、文字通りの不治の病。
若い女中たちが怯えるのも無理はなかった。おそらく一番年若い二人がこの役目を押し付けられているに違いない。本邸内でもさまざまな噂が飛び交っているのかもしれなかった。
「……はぁ」
仕方のないこととはいえ、少しだけ憂鬱な気分になってしまうのは止められず、小さく溜息をついた。
文緒は気を取り直して、御膳を両手でしっかりと抱えて廊下を進む。旧邸の静けさが、朝の冷えた空気と共に肌を刺してくる。
空黎の部屋の前に立つと、一度深く息を吸い込んだ。昨日と同じようにまた冷たく自分を拒絶するかもしれない。
『あれはあいつの本心じゃない――病がそうさせている』
昨日の雪月花の言葉が、文緒の拠り所になっていた。
文緒は深呼吸をして息を整えると、普段通りに声をかける。
「おはようございます。お食事はいかがですか?」
襖を静かに開けると、薄暗い部屋の中で、空黎は昨日とまったく同じ体勢で座っていた。
寝台に寄りかかり、外の見えない窓を見つめたまま微動だにしない。文緒が入ってきたことにも反応を示さず、振り向きもしないまま、ただ一言――
「いらない。下げてくれ」
その声には何の感情が込められていないように聞こえる。それでも文緒は引こうとはしなかった。
「でも……雪月花さんもおっしゃっていましたように、少しでも召し上がっていただかないと」
なるべく非難めいた響きにならないように注意しながら、それでもほんの少しの説得を込める。
空黎の視線は変わらず窓に向けられたままだったが、文緒は気にせずに御膳を下ろすと小さなお椀を手に取った。
―――えっ……
文緒は驚きを隠せなかった。
手の中にあるお椀は、まるで何時間も放置されたかのように冷え切ってたから。
湯気はなく、指先に伝わるのはただの冷たさ。
出来立ての料理にあるはずの、ふわりとした温かい香りがまるでしない。
(もしかして……)
文緒は違和感を抱き、おかゆの入った茶碗や、おかずの小鉢にもそっと触れてみた。
結果は同じだった。すべてが、すでに冷めきっている。
ついさっき、本邸から運ばれてきたはずのものなのに――?
それだけではなかった。茶碗のふちに残る米の乾き。まるで昨夜の残り物をそのまま並べたような、おかずの表面の妙な硬さ。
文緒は目立たぬようにしながらお椀を鼻に近づけて、さりげなく匂いを嗅ぐ。腐ってはいないようだけれど、どことなく今朝作られたものではないような気がした。
(……いったいいつ作られたものなんだろう)
文緒の胸に鈍い痛みが広がる。
これが、この家での空黎の扱いなのだろうか。
当然、空黎も知っているはずだった。直接何も言われなくても、黙ってこの食事を前にすれば嫌でも気づいてしまう。
こちらに目を向けようともしない鈍色の瞳には、怒りも悲しみもなく、ただ淡々と、ほんのわずかに漏れる朝の光を映しているだけだった。
◇◇◇◇
空黎の部屋をあとにして、文緒は旧邸の静まり返った廊下を歩いた。
朝の光が障子越しにぼんやりと差し込む中、足音だけが響く。
用意された自室へ向かう途中、文緒は昨日から気になっていた違和感の正体を理解した。
この旧邸には、誰の気配もない。
掃除をする者も、洗濯をする者も、食事の支度をする者もいない。
日常の雑事は、すべて放置されている。
それは、昨日の時点でも感じていたことだった。けれど今はっきりと認識してしまうと、あまりにも異様で、胸の奥に冷たいものが広がった。
楠上を除けば、誰もこの旧邸に関わろうとしないのだ。
もちろん、楠上も常にここにいるわけではない。彼は綾羅城家の家令として、本邸での職務を優先する立場にある。空黎に付き添うことはできても、旧邸全体の手入れにまで手が回るわけではなかった。
(ここは完全に《《見捨てられた場所》》なんだ)
文緒の胸の奥に、じわりと何かが滲んでくる。
このままでいいはずがない。
その時、ふと自身の空腹を感じた。
文緒は自室へと戻り、自分の分の御膳に手を伸ばす。
箸をつけてみた――が、すぐに顔をしかめてしまった。
(……美味しくない、というよりもはっきりいって不味い…)
芯の残るおかゆ。湯気はまったく立っておらず、口に運ぶとざらりとした嫌な触感が舌に残る。おそらく冷飯をお湯に放り込んで、そのまま放置しただけのような。炊きたての粥とはほど遠い、味も素っ気もないものだった。
文緒は箸を止め、わずかに眉をひそめる。
けれど、一度箸をつけた以上絶対に残すものか。ほとんど反骨精神だけで、文緒はすべてを食べ切った。
文緒は冷めきった朝餉を食べ終えた後、ふうっと小さく息をついた。空腹は満たされたはずなのに、心の奥には釈然としない感覚が残る。
そして、じわじわと胸の奥から湧き上がってくるものがあった。
怒りとも苛立ちとも違う。けれど確かにそれは、自分の中で静かに燃え始めていた。
(こんな食事では、食べる気が起きないのも無理もないわ……)
食事とは、ただ栄養を摂るだけのものではないと教えられた。
誰かが心を込めて作るからこそ、食べる側の心も満たされるものだ。
けれどこの食事には、なんの温もりも感じられなかった。ただ仕方なく作られた《《食事らしきもの》》が、冷めきった状態で運ばれてくるだけ。
(違う。ただ冷めた食事の問題じゃない……)
旧邸には、食事と同じように冷たく切り離された空間が広がっている。この旧邸全体が、空黎を生きる世界から切り離そうとしている。
まるで、余命一年と宣告された空黎に対して、生きる意志を持たせないようにしているかのように思えてならなかった。
文緒は、強く拳を握る。
この状況を、放っておくことはできない。
(私が、何とかしないと……)
この状況が当たり前でいいはずがない。
文緒は静かに息を吸い込むと静かに立ち上がった。
それが、ここにやってきた自分に唯一できることなはずだから。




