揺れる心、届かない言葉
放課後の練習室は、いつものざわざわした空気に戻っていた。
けれど、夏海も灯も、胸の奥に引っかかりを抱えたまま笑っている。
その笑顔は、どこか薄く、どこか張りつめていた。
灯は夏海を横目で見るたび、昨日の光景を思い出す。
――陸と話して、少しだけほっとしたような夏海の横顔。
その表情が、自分には向けられたことのない種類の“安心”に見えてしまった。
「……夏海、昨日……」
勇気を出して声をかけようとした瞬間、
別のメンバーが「灯、これ頼む!」と呼び、会話は中断された。
ほんの一言のチャンスが、また消える。
夏海も同じタイミングで灯の方を向いていた。
けれど灯は呼ばれて移動してしまい、言葉を飲み込むしかなかった。
「……なんでだろ。ちゃんと話したいだけなのに」
声に出せなかった気持ちが胸に詰まる。
練習が始まると、空気の変化に鋭い美月がすぐ反応した。
(あー、これは完全に拗らせてるわね〜)
横目で夏海と灯の距離感を確認しながら、
美月はほくそ笑むように口角を上げる。
(夏海の気持ちが揺れてるのも、灯がそれに気づいてビビってるのも一目瞭然)
観察対象がどんどん面白くなってきた。
その影で、もうひとり気づいている人物がいる。
里奈。
昨日の夏海と陸の会話を見てしまった里奈は、
今日も教室の中を静かに目で追っていた。
(夏海って、案外揺れやすいんだね)
彼女の目は冷静で、けれど心の奥には小さな焦りが潜んでいる。
(このままじゃ、灯の気持ちが夏海に戻るかもしれない……)
静かだけど確かな危機感だった。
「じゃあペアになって! 夏海は灯と組め!」
講師の声に、一瞬二人が硬直する。
(え……今日この感じで灯とペア……?)
(よりによって今日か……)
距離の取り方が分からないふたりは、
ぎこちなく向き合い、ゆっくりステップを踏み出す。
「夏海、あのさ……」
灯が勇気を出して口を開いたとき――
「夏海ー! これちょっと教えてー!」
別の子が走ってきて、また会話が遮られた。
灯は一瞬、悔しそうに視線を落とす。
夏海は夏海で、胸がぎゅっと痛んだ。
(話したいのに、なんでこんなタイミングばっかり……)
たった数秒のズレが、ふたりをまた遠くへ押し出していく。
練習後、夏海が荷物をまとめて廊下に出たとき、
里奈が壁にもたれて待っていた。
「夏海ちゃん、ちょっといい?」
「里奈? どうしたの?」
里奈の笑顔は穏やかで、けれど何かを探るようだった。
「昨日さ……陸くんと話してたでしょ」
夏海の心臓が跳ねる。
「……み、見てたの?」
「うん。なんか、いい感じだったね」
里奈はにこっと笑ったけれど、その笑顔はどこか鋭い。
夏海はうまく言葉が出ないまま、
里奈にじっと目を見られ、言い返すタイミングを奪われる。
「ねえ夏海ちゃん。
最近、灯くんとあんまり話してないよね?」
「え……」
鋭い一言だった。
夏海は胸を刺されたように立ち止まり、
里奈はその沈黙を読み取ったように優しく微笑む。
「無理しない方がいいよ。
揺れるときは揺れるもんだし、
気持ちってさ、思ったより……簡単に変わっちゃうんだよ?」
意味深な言葉を残し、里奈は去っていく。
夏海はその場に立ち尽くした。
(……私、本当にどうしたいんだろ)
少し離れた階段の影で、
美月はまたにやにやとその様子を見ていた。
「最高に面倒くさくなってきたじゃん……!」
彼女の楽しそうな笑みとは裏腹に、
夏海たちの心はどんどん絡まり始めていた。




