灰色の大地にて
緑が徐々に色を失い、辺り一面が乾いた灰色に染まりはじめていた。草木は枯れ、風はその匂いすら淀ませている。
〈灰の谷〉へと続く道は、もう生命の気配をほとんど残していなかった。
「……空の色が変わってきたわね」
馬車の窓辺に座るユノが、曇天を仰ぎ見ながら低く呟いた。
空はかつての蒼を失い、濁った鉛色へと転じつつある。遥か遠くに見える山々の輪郭も、もはや霧に呑まれたように朧げだった。
ユリウスは馬の手綱を引き、静かに馬車を止めた。
「ここから先は徒歩で進もう。地盤が不安定だ。馬車じゃ、戻れなくなる可能性がある」
彼の声には、いつもと変わらぬ冷静さがあった。だが、その眼差しは僅かに険しく、〈灰の谷〉の先にある何かを警戒しているのが分かる。
最小限の装備を携え、二人は谷へと足を踏み入れた。
かつては王国の鉱山として栄えたこの地は、今では瘴気の吹き溜まりとなり、魔獣すら棲みつかぬ死地と化している。
「瘴気の濃度……思ったより広がってる。まだ本域じゃないのに」
ユノが魔力で周囲を探る。空気は目に見えない重さを孕み、肌にまとわりつくような違和感を伴っていた。
「ユノ。念のため、結界を張ってくれ。小規模で構わない。気づかれにくい程度に」
「了解。〈冷結陣〉、展開」
手を掲げ、静かに詠唱を始めるユノ。
薄氷のような紋章が浮かび、周囲をうっすらと覆う。これは単なる冷気ではない。霊的な探知を妨げる特殊な遮断陣──隠密行動に特化した彼女独自の術だ。
「これで、多少は気配も足音も抑えられる。……少なくとも、不意を突かれる確率は減るわ」
「助かる」
ユリウスは地面に膝をつき、指先で砂をすくう。
その粒子は細かく乾ききっており、風もないのにどこかへと吸い寄せられるように流れていた。
「……不自然だな。谷底の方から、妙な“引き”がある。まるで……瘴気が吸い込まれてるみたいだ」
「それ、“瘴気流”かもしれないわ。地脈や風の流れに沿って、瘴気が一方向に集まる現象……ただ、自然の流れなら、もっと緩やかなはず」
ユノの顔色が僅かに曇る。
彼女のような魔導士にとって、魔力や瘴気の流れは直感的に「感じる」もの。その違和感は小さくとも、確かな警鐘となる。
「意図的に“流れ”を作っている可能性もある。……もし、それが誰かの手によるものなら──」
「……瘴気を操れる存在、ってこと? まさか、〈異形〉の……」
その言葉の続きを、ユノは口にできなかった。
ユリウスもまた黙したまま、剣の柄に自然と指が触れている。
そして、谷をさらに奥へと進む。
崩れかけた岩肌の斜面。巨大な亀裂。時折、地鳴りのような振動が足元から伝わってくる。
──そして、視界の先。
灰色に染まった風景の中に、不自然な直線が浮かび上がる。
それは、かつての集落跡。
朽ちた門と、崩れかけた石造りの建物たちが、まるで灰の中に沈んだ亡霊のように佇んでいた。
「……誰か、いる」
ユノが呟く。すぐにユリウスも身を伏せ、懐から小型の観測具──魔導視鏡を取り出して覗き込んだ。
「……人影、ひとつ……いや、複数。だが……おかしい」
揺れる。ふらつく。人間には見えない動き。
そして次の瞬間、崩れた民家の背後から、灰色に染まった“何か”が姿を現す。
「……人、じゃない」
それは、かつて“人間”だった。
装備は王国の標準仕様。体格も、体の動きも、人間そのものだ。だが、肌は灰に覆われ、瞳は虚ろに濁り、喉の奥からは獣じみた唸り声が漏れる。
「調査隊の成れの果て、か……!」
「──来るよ!」
五体の異形が、一斉に襲いかかってくる。
「ユノ、援護を!」
「任せて!」
ユリウスが一歩踏み出す。
──《霧刃・壱ノ型》──『瞬閃』
一閃。風が裂け、灰の空気を斬り裂いて、一体の異形を瞬時に沈める。
「右後方、もう一体!」
「任せて──〈氷弾〉!」
放たれた氷の矢が、異形の肩を砕く。動きが鈍ったその瞬間、ユリウスが斜めから斬り込む。
──《霧刃・弐ノ型》──『斜刃連舞』
流麗な連撃が、確実に急所を穿ち、異形を切り伏せる。
残る三体も、ユノの氷術によって動きを封じられ、短時間で鎮圧された。
灰塵が舞い、静寂が戻る。
二人は呼吸を整えながら、異形の亡骸を確認する。
「装備の痕跡……やっぱり、王国の調査隊よね」
「……ああ、間違いない。だが問題は──これは“自然な変異”じゃない。意図的に作られた兵士のようだ」
「まさか……誰かが瘴気を使って、“兵を作ってる”の?」
ユノの声に、不安が滲む。
「この谷には、何かが潜んでいる。ただの魔獣でも、瘴気の変異体でもない。──意志を持つ、“敵”だ」
ユリウスの視線は、灰に沈む集落の奥へと向けられていた。
冷たい風が、再び谷を吹き抜ける。
──かつての人間が、異形となって襲いかかる地。
だが、それでもユリウスとユノは足を止めない。
すべては、この地に巣食う“真実”へと至るために──。
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