封印の扉
沈黙の空間に、少女の震える声が消えた。
黒い霧が少女の背から滲み出し、まるで生き物のように蠢いている。それは触れた空気を腐らせるかのようにじわじわと広がり、足元の床さえ歪ませていた。
少女の目は濁りきっていたが、その奥にわずかな理性の火が残っている。
「……た、たすけ……て……!」
ユリウスの表情が、わずかに鋭くなった。
腰に帯びた《蒼牙》には手を伸ばさず、彼は左手をすっと掲げ、指先に霧のような魔力を集める。空気が震え、白銀の気配が拡散していく。
──《霧刃・参ノ型》──『霞織』
視界が柔らかい霧で覆われる。彼の技は攻撃のためのものではない。周囲に展開した霧が、黒き瘴気に絡み、干渉し、押し返していく。
少女の体を蝕んでいた黒い霧が軋むように揺れ、叫びをあげるかのように跳ねた。ユリウスは間髪入れず、もう一歩踏み込む。
──《霧刃・肆ノ型》──『返刃』
霧を滑るようにして彼の指先が閃き、僅かに残っていた黒霧を切り裂く。直接の斬撃ではなく、魔力の繊細な干渉によって霧そのものを断ち切る一閃。
黒い霧は悲鳴をあげるように震え、壁際へと退避したのち、すうっと闇の中に溶けて消えた。
少女は、崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。
ユリウスが近づき、そっと肩を抱き起こす。
「……大丈夫か?」
呼吸は荒いが、少女の瞳には確かな光が戻っていた。
「……あ、あな……たは……?」
「ユリウス。ギルド《蒼銀の剣》の者だ。君は?」
「アリシア……遺跡調査班、第二班の補助術師でした……」
彼女は必死に意識を保ちながら、遺跡の奥へと手を伸ばすように指差した。
「……“封印の間”が、開いて……あの中に……あれが、いる……」
言葉の端々が震えている。怯えというより、“喪失”に近いものを帯びていた。
ユリウスは膝を折って視線を合わせる。
「他の者は? 君以外の調査員たちはどうなった?」
その問いに、アリシアはかすかに唇を震わせ、ゆっくりと首を横に振った。
「……わからない。封印に近づいた時……急に黒い霧があふれて……みんな、叫んで、逃げようとして……」
彼女は思い出すだけでも苦痛に顔を歪めた。
「一人、隊長が……アーサー班長が、私をかばって……他の人たちは……奥へ、飲み込まれて……!」
ユリウスの眼が細くなる。
「生存の可能性は?」
「……あのままなら……」
言葉を続けられず、アリシアは顔を伏せた。
ユリウスはしばし沈黙した後、立ち上がる。
「……封印の間に行く」
その言葉に、アリシアが慌てて手を伸ばす。
「ダメ……! あそこにいるのは……人じゃない! あれは、目を合わせただけで、心を引き裂かれる……!」
だがユリウスは、わずかに笑みを浮かべて答えた。
「“人じゃないもの”を相手にしてきたのは、一度や二度じゃない」
その声音は、揺るぎなく静かだった。
「君が生きている限り、全滅ではない。なら──希望はまだ、ここにある」
少女の手が、力なく落ちる。
彼女の意識が遠のいたのを確認し、ユリウスは懐から銀色のプレートを取り出した。
(……この鍵が、扉を開ける)
遺跡の奥、漆黒の扉の前に立つ。
扉には、古の封印魔術と思われる術式が無数に刻まれていた。その大半が崩壊し、中心に半月型の窪みが空いている。
プレートを差し込むと、扉は低い唸り声をあげてゆっくりと開き始めた。
冷たい空気が流れ出る。まるで、時間そのものが凍りついていたかのように。
視界の先には、崩れた神殿のような空間。
祭壇。そしてその前に──“それ”はいた。
人の形をしているようで、人ではない。
骨のような仮面、漆黒の外套、立ち尽くす影の王の如き存在。
ユリウスが一歩踏み込むと、その存在が、緩やかに顔を上げた。
「……目覚めを拒む意思は……お前か」
低く、地の底から這い上がるような声。
ユリウスの喉奥がわずかに鳴る。得体の知れぬ“力”が、眼前で静かにうねっていた。
ここに封じられていたのは、単なる魔物ではない。
この地に、“理由”あって封じられた存在──
遺跡の中心にて、かつての神話に繋がる扉が、静かに開こうとしていた。
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